低い自己肯定感の沼から出ようとしないのを、他人はどうにもできない
知人が「自己肯定感は大した問題ではない」という記事を書いていて、それに刺激を受けて私も少し考えてみる。
羽海野チカさんのマンガ「3月のライオン」の主人公は、無茶苦茶自己肯定感が低かった。幼いうちに両親を亡くし、将棋の力を見込まれて棋士の家で引き取ってもらったものの。
その家の子どもたちを将棋で負かしてしまい、そのために嫌われて、居場所のない思い。でも将棋の力を失えば自分は物理的にも生きていく術を失ってしまう。将棋で居場所を失い、将棋を生きる術として確保する、という矛盾した形で青年期まで過ごし、実に暗い青年となってしまう。
そんな主人公を救ったのは、私の考えでは、2つだと思う。1つは、いつも裏表なく、温かく迎え入れてくれる3姉妹との出会い。そしてもう1つは、やはり将棋。将棋のために、引き取ってくれた家庭で居場所を失ってしまったけれど、その家を離れ、精進するうちに。
その実力を認めた人たちが、主人公の周りに集まるようになり、それが主人公の心を溶かしていく。そんな物語となっている。
この漫画を読んで思うのは、「たとえ自己肯定感が低くても、コツコツ努力を重ね、力を身に着けていくと道は開けることもある」ということ。
私が子どもの頃、レッカー車の会社を経営する人の話を聞いたことがある。戦争で両親を失い、兄弟でみなしごとなり、戦後の焼け野原で、時折牛乳配達の牛乳を拝借しながら飢えをしのぎ、仕事なら何でもやって、最終的に会社を経営するまでに至った、という半生の話。
その人の話を聞くと、「自信」があるなあ、と思った。両親を亡くし、みなしごのためになかなか他人からの温かさを感じることができず(戦後の焼け野原では、みんな自分の生活だけで必死だったのもある)、自己肯定感うんぬんという状況ではなかったように思う。それでも。
仕事をきちんとこなし、それで人からの信頼を得、少しずつ地歩を固めて、会社を経営するまでに至った、ということを考えると、自己肯定感が仮に低くても、コツコツ努力し、人の信頼を勝ち得、なんとかやっていけそうだと思える「自信」は、十分に自己肯定感の代わりになるのかもしれない。
自己肯定感ブームが起きて以来、「自分は親からひどい仕打ちを受け、自己肯定感が低くなってしまったから、自分の人生は台無しになってしまったのだ」と、すべての原因を自己肯定感の低さに求める人が出るようになった。私はその意見にある程度同意するのだけれど、他方。
そこにとどまっていては何も解決できない、という現実も見つめざるを得ない。自己肯定感が低く育ってしまった、という話を他人にしたとして、一時の同情を得ることはできるだろう。でも次の瞬間、「で、どうしたいの?」が来る。他者にはどうしようもない。はっきり言えば、優しくする義理もない。
私は、そうした人も、楽しく生きていける一歩を踏み出してほしい、と願っている。祈っている。けれど、その一歩は、ご本人にしか踏み出せない。私が足を握って前に進めるのでは意味がない。そんなヒマが私にはないからだ。私だけでなく、世のほとんどの人がそのヒマを持っていないからだ。
でも、もし一歩を踏み出すのであれば、一緒に歩くことはできる。あちらに進むときれいな景色が見えるよ、と伝えることもできる。私以外の同伴者と出会うことも可能となる。そうした出会いを重ねる中で、「自信」を強めていくことが可能になるだろう。だけど。
「一歩」を踏み出さなければ、どうしようもない。ツイッター上でも、自己肯定感の低さは親のせい、という恨みつらみを述べつつ、だけど一歩を踏み出さない人に出会うことがある。恐らくだが、一歩を踏み出してしまうと、親のひどさを証明できなくなる気がしてしまうのかも。
親がひどい人間であることを証明するために、そのことを世間様に刻印するために、一歩を踏み出せないでいる自分で居続けなければならない、と自分で自分に呪いをかけている気がする。私は思う。容赦ないようだが、それは親がかけた呪いではなく、もはや自分がかけた呪いでしかない、と。
残念だが、他人は親ではない。親の代わりに自己肯定感を提供することはできない。手取り足取り、自己肯定感の低い人を世話するゆとりを持つ人はあまりいない。本人が一歩を踏み出さなければ、事態を変えることができない。
赤の他人である第三者ができることは、その一歩を踏み出す勇気が湧くような環境を整えること。そして、その一歩さえ踏み出せば、一緒に歩む人を紹介することもできるようにすること。それが精いっぱい。だけど、一歩を踏み出そうとしない場合、他人はどうしようもない。
「あいつのせいで人生無茶苦茶になった」、それはその通りなのだろう。けれど、無茶苦茶になったその後、一歩を進めるかどうかは本人次第。そして一歩、また一歩と足を出すことさえできるなら、自信を持てるようなアシストをすることくらいなら、他人でもある程度可能。
「恨みある両親の悪を証明するために、自分はダメ人間のままでいる」という論理に閉じこもる人は、案外少なくない。しかし、そうした呪いを自分にかけている間は、他人はどうにも手出しのしようがない。他人としては、一歩を踏み出してほしい、と祈ることしかできない。
「ルパン三世」峰不二子の名言を教えて頂いたので、シメにそれを紹介。
「つまずいたのは誰かのせいかもしれないけど
立ち上がらないなら
誰のせいでもないわ」