関係性をデザインすると子どもは変容する

「ぼく、花瓶割ってないのに割ったって先生に叱られた」とその子は泣いていた。しかし親御さんまで「お前はそそっかしいから知らん間に割ったんだろう」と信じない。妹たちも、お兄ちゃんがやったんだろう、という態度。誰も理解してくれない四面楚歌状態。

確かにその子は非常にそそっかしかった。今なら間違いなくADHD(多動)の診断をもらっていただろう。だから、その落ち着きのなさで知らぬ間に花瓶を割ったということはあり得ることではあった。でも私が気になったのは、家族からも先生からも見捨てられたかのような理解者のなさだった。

成績は学年最下位クラス。成績表を見たら、ブービー賞(下から2番)。これとそそっかしさが相まって、家族からも学校からも見放されている感じだった。でも親もなんとかならないかと私に指導を頼んできた矢先の出来事として、その花瓶事件が起きた。

学校の勉強をする以前にこの四面楚歌の状況を変えないと。「どうせ僕なんて」と捨て鉢になると、学習意欲なんて出てくるはずがない。
「学校に連絡して、今度この子を指導することになった人間が話を聞きたいと言ってると伝えてもらえますか」と親御さんに頼んだ。

学校に行くと、担任と教頭先生が緊張した面持ちで待ち構えていた。無理もない。親でも親戚でもない全く赤の他人が学校に乗り込んで来るなんてまずないこと。怒鳴り込みに来たのかもしれない、とでも思ったのかも。私は「今度面倒見ることになった子について、学校での様子をお伺いしたくて」と伝えた。

本当に話を聞きに来ただけなんだ、と、しばらくして安心したのか、教頭先生は席を外した。その後も担任の先生からしばらくクラスの様子とかを伺い、最後にこう伝えた。「今はあの子、いろいろ問題があるかもしれませんが、必ず変わります。少し長い目で見守ってやってください」と頭を下げた。

すると一週間たたないうちに、今度は「先生からほめられた」とえらく嬉しそう。掃除を自主的にやってる様子を見てほめられたという。それまでも真面目に掃除する子だったけど、どうやら先生のその子を見る目が変わったらしい。

それまではきっと、先生から「落ち着きのない子、何をするかわからない子」と警戒されていたのだろう。そんな目で見ているから欠点ばかり目につき、その子もその視線にいたたまれない思いをしてきたのだろう。でも私という赤の他人が第三者として話を聞きに行き、「この子は変わる」と伝えたことで。

「この子はどんなふうに変化していくというのだろう?」と、よい変化探しする視線に担任の目が変わったのだろう。だから、真面目に掃除をする子なんだ、という、これまで見てきたはずの風景にも気がつき、それをほめることもできたのだと思う。

そのことをきっかけに学校や家族の中での位置づけが徐々に改善し、学校でも家でも居場所を持てる感覚になったようだ。その後、成績をメキメキと伸ばし、恐らく受験時には上位20%以内の成績に伸びていたように思う。高校進学後は特進コースで学年トップクラス、第一志望の中堅大学に現役合格した。

その子は誰から見ても落ち着きがなく、それ故に数々の失敗を重ねてきて、家族でも学校でも最悪の関係性になっていた。何を言っても信じてもらえない、という状態。こうした関係性を、第三者の私が少し踏み込んでみたことで、関係性がガラリと変わった。そのことがこの子を変えたのだろう。

西欧文明では、「存在」ばかりを考える。そして存在は容易に変わらず、だからダメなヤツは何をしてもダメ、と見捨てがち。でも私は考えが異なる。「関係性」が変わると「存在」の姿は大きく変化する。驚くほどに。逆に言えば、「関係性」が「存在」を決めつけていた可能性が高い。

私は、関係性さえ変われば存在は変わり得る、と考えている。それを実現するために、学校ではめったに起きないこと(保護者でもない人間が特定の生徒のために学校に乗り込む)をやってみた。しかし先生の緊張を高めたいわけではないので、話をひたすら聞いて、責めるつもりがないことを伝えた。

こんな滅多にないことをする人間が、「この子は変わる」と言ったことで、先生も興味津々になったのだろう。その視線の変化こそが、その子の変化を呼び覚ましたのだけれど。先生が自分の変化を喜んでくれてる、という感覚が、その子の学習意欲に火をつけた。

「この子に一体どんなよい変化が起きるというのだろう?」と先生からの関係性が変化することで、実際に生徒が変化するこの現象をピグマリオン効果というらしい。yakb.net/man/263.html 当時、私はこの言葉を知っていたわけではなかったけれど、関係性が変わると人間は変わるということは知っていた。

西欧文明は、歴史的に「存在」を重視し過ぎて、関係性が存在にどれだけ影響を与えるのかという点に注意がいかなくなってしまった気がする。そして西欧文明の影響をモロに受けた日本も、「どうせアイツは」と、存在は変わらない、と決めつけがち。それが事態を悪化させてしまうのだけど。

ケネス・ガーゲン氏は、存在よりも関係性を先に考えたほうがよい、と提案する。こうした考え方を社会構成主義というらしいけど、堅苦しいので私は「関係性から考えるものの見方」と呼んでいる。存在の姿は関係性で決まるのだから、関係性を先に考えるこの考え方は、非常に興味深い。

そしてこの考え方は本来、仏教に親しみのある日本では馴染みやすいように思う。存在を「空」と考え、「縁」という関係性の中でしか私達は存在を認識できない、と仏教は説いているわけだから。
たとえば「鉄」を、私達はどう理解しているだろうか?

電気を通す、夏の日差しでやけどするほど熱くなる、冬は凍てつくほど冷たくなる、磁石にくっつく、などなど。「鉄」と何かの関係性ばかり列挙せざるを得ないのがわかるだろうか。実は私達は「鉄」そのものを理解することはできない。鉄と他のものとの関係性の中でしか、私達は鉄を認識できない。

鉄以外のものとの関係性のネットワークの中心に、つなぎ目に「鉄」はある、と感じるのだけど、肝腎のそのつなぎ目そのものを把握しようとしてもつかめない。「空」をつかむだけ。実は、人間の認識は、存在を把握できず、関係性のネットワークのつなぎ目に存在がある気がしているだけ。

だとすれば、人間も同じ。その人そのものを理解することはできない。誰かとの関係性の中でしかその人を理解することはできない。関係性抜きにしてその人を理解することは不可能。だとすれば、関係性が変われば、あたかもその人の存在が変化したかのようにもなる、ということ。

そして実際に、人間は関係性が変わると変化する。ならば、その人の「存在」を変えようとするより、その人と周囲との「関係性」に変化を与えた方がよい。関係性が変わると「え?この人にこんな一面が?」と、認識を新たにする場面が増えるだろう。

関係性をデザインする。そのことにより、事態が動く可能性はグンと高まる。こうしたガーゲン氏の提案は面白い。みなさんも読まれることをお勧めする。 https://www.amazon.co.jp/関係の世界へ-危機に瀕する私たちが生きのびる方法-ケネス・J・ガーゲン/dp/4779517613

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西欧文明は「存在」を重視し過ぎて問題を深刻にしている。「関係性のデザイン」が、様々な問題を解決する糸口になるかも。そうしたガーゲン氏の常識破り、アップデートの様子を紹介した本。
「世界をアップデートする方法 哲学・思想の学び方」
x.gd/MWrKc

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