楽しく学びを遊ぶには「余計なもの」が必要

遊びとは何か。ふと気がついたけど、遊びは「余計なことをする」のが一つあるかもしれない。
うちの子どもたちは遊びの中でついでに学んでいる感じ。それでいて学校の成績も悪くないらしい。何で遊びながら学べているんだろう?と思うと、「余計なこと」がほとんどだからではないかと思う。

子どもたちは教科書チックなものは、学校でもらう教科書以外読んでいない。参考書もゼロ。「余計なもの」ばかり読んでる。「ざんねんな生き物」とか「算数大図鑑」とか、余計な知識が盛り沢山なものを好んで読んでいる。すると楽しいらしい。遊んでいるかのごとく楽しく読めるらしい。

これに対し、教科書や参考書などはムダがない。たまに偉人のエピソードが挿入される「余計なもの」がある程度。このため、ほとんど遊びがない状態になる。これが「教科書は楽しくない」原因になるらしい。

いま、藤井一至さんの「土と生命の46億年史」を読んでるけど、面白い。専門家が書いてる、かなり専門的で難しいことも扱ってる内容のはずなのに、わかりやすく面白い。大学で使った教科書とは大違い。何でだろう?と考えると、「余計なもの」が盛りだくさんだからだろう。

この本を読むと、随所に「余計なこと」が散りばめられている。学生がやる気をなくす話とか、サッカーとかケンカとかネバネバなんて表現とか、まず教科書で目にすることのない「余計なもの」が盛りだくさん。まあ、一般向けのブルーバックスだからというのもあるだろうけど、とても頭に入りやすい。

どうも人間の頭(少なくとも私の頭)は、「余計なこと」があるほうがすんなり読めるし、面白く読める生き物であるらしい。教科書のように、必要なもの以外は全てそぎ落としてしまったものは、本来エッセンスなのだから読みやすくなるようにリクツ的には思うけど、実際にははなはだ読みにくい。

これはもしかしたらおクスリと同じかもしれない。苦いクスリは錠剤化して糖衣という甘いコーティングを施して飲みやすくしてあったりする。顆粒状にして飲みやすくしたり。そのために薬効成分だけでなく「余計なもの」を足していたりする。でもそのおかげで私達はクスリが飲みやすくなる。

どうも、知識というのはそういうものではないか。藤井氏の別の書籍では、根っこから出る酸性の物質を説明するのに「レモンの汁みたい」なんていう「余計なもの(表現)」を足していたりする。しかしそのおかげで読んだ人間は「ああ、酸っぱ!」と五感を呼び覚まされてそこの箇所を読む。わかりやすい。

うちの子どもたちは、「余計なもの」が中身9割以上の本を楽しく面白く読んで、読書がすっかり「遊び」になっているわけだけど、その9割の「余計なこと」に引っかかる形で残り1割の、教科書に書いてあるような内容も「ついで」に覚えてしまうらしい。

だから、子どもたちは学校で習う内容の恐らく十倍ではきかない「余計なもの」をたくさん楽しく読んで楽しんで、そのついでに学校で習うようなことはマスターしてしまうらしい。
では、余計なものを削ぎ落とした教科書だけを読んだらもっと効率的に学べるか、というと、恐らく結果は逆になるだろう。

「余計なもの(遊び)」がないとフックがない。引っかかりがない。このため、読んでもツルツル滑るようで知識がちっとも頭に残らない、面白くもない。どうも人間は、「余計なもの」が引っかかりとなって頭に残りやすくできているらしい。そう思うと、なんて教科書は引っかかりが少ないものだろう。

知識を次世代に伝えるのが教科書の使命のはずなのに、なぜ読む人間にとってフックのないツルンとした記述にしてしまう伝統が続いているのだろう?理由が2つあるように思う。
一つは、学問が「ムダを削ぎ落とす」ことを目的としているから。

中学では「太郎君は時速2キロで歩いて駅へ、花子さんは時速4キロで自転車で駅へ」なんて文章問題が。方程式を作るには、太郎君や花子さん、徒歩や自転車といった「余計な情報」を削ぎ落とし、数字の関係性にだけ着目する。学問は、余計なものを削ぎ落とし、エッセンスは何かを追究するものなのかも。

教科書は学問を伝えようとするものである以上、「余計なものを削ぎ落とし、エッセンスだけ抽出する」という記述になりがちなのは仕方ないのかもしれない。
もう一つ、理由があると思う。それは、「昔は一文字書くのも大変だった」ということ。

紙が開発される前、竹の皮に一文字一文字刻んでいたため、歴史書を「青史」とも呼んだりする。まさに一文字ずつ入魂して刻むものだったため、特殊な技能の持ち主だけが読み書きするという時代が長かった。
活版印刷が発明された時代になっても、字は一文字ずつ書かねばならなかった。

また、活版印刷でも、写植と言って、一文字ずつ刻まれたハンコのようなものを並べる気の遠くなるような作業が必要だった。一文字に大変な労力がかかる事を考えると、いかにコンパクトに伝えたいことを伝えるかが優先され、ムダな字を加える余裕などなかったと言えるかもしれない。

教科書のようなマジメな内容の本が、今に至るまで「余計なもの」を削ぎ落とした形になっているのは、学問を伝えるという宿命と、「一文字増やす作業が大変」だった時代を引きずっているからかもしれない。
しかし、デジタルの時代になって、状況が変わってきた。特に後者の「一文字増やすの大変」が。

デジタルで文字を増やすのは大した労力ではなくなった、昔はペンで一文字ずつ書き入れねばならず、かなり大変な作業だったが、キーボードを叩けばかなりの文字数を瞬く間に打てる。写植をしなくてもモニターがそのまま字を表示してくれる。文字を増やすことが労力ではなくなった。

ならば少なくとも、「文字を増やすと大変」という制約要因は失われた。好きなだけ文字を増やすことが可能。ならば、フックを増やすために「余計なもの」を加えることに、大きな問題はなくなった、ということが言えるように思う。

藤井氏の著作も、ある意味、デジタルネイティブの世代だからこそ生まれたものなのかもしれない。文字を増やすことに制約がないなら、「余計なもの」を増やしてフックがかかりやすいようにしてしまえばいい。おかげで藤井氏の本はとても読みやすく、理解しやすく、面白い。

「余計なもの」が遊びとなり、読む側が楽しめるからだろう。それでいて、意外と文字数はそんなに増えないから不思議。理解しやすいから定義を細々説明する必要がなくなるからだろう。本の書きぶりを見ても、時代の変化が窺われる。

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