ネコな関係性・・・距離を置き、アンテナを張り、必要とあらば「後回り」で動く

「関係性から考えるものの見方」(社会構成主義)、たぶん第22弾。
トシをとってきたからか、「仲良くなる必要はない、でも楽しい関係になることが望ましい」と思うようになった。
とあるご家族の話。「お嫁さんと実の母娘のように仲良くなりたい」と考えたお姑さん、心の垣根をとっぱらおうとした。

いろいろとおかずを持ってきたりしてくれて最初はお嫁さんも感謝していたのだけれど、すでに自分が料理を作ってあるのに持ってこられて、しかもそれがその日のうちに食べないといけないおかずを持ってこられて、さらに「感謝するのが当たり前、当然喜ぶよね」圧力を感じて、だんだんつらくなってきた。

垣根を取っ払おうという姑の動きは、「遠慮がない」言動として現れた。これがお嫁さんからしたら「心の中にドカドカと土足で踏み込まれる」感じで、ストレスに。結果的に「もう我慢できない!」となって、事実上、ほぼ交渉のない状態になってしまったという。

そのお姑さんとしては、「仲悪くならないためには、仲良くすればいい」という発想だったのだろう。心の窓を開きっぱなしにして、オープンマインドで対すれば、お嫁さんも心を開いて、境界線のない仲のよい母娘のようになれる、と思っていたのだろう。でも。

誰と仲良くなりたいか、という選択権は、各人にある。お姑さんは「お嫁さんと母娘のように仲の良い関係」に憧れて、その関係ならばこういうやりとりが行われるだろう、という「空想」に基づいて行動していたのではないかと思われる。そして、目の前のお嫁さんの気持ちを
観察していなかったのでは。

私たちはしばしば、空想を思い描いて、その空想通りに行動すれば空想通りの世界が実現する、と思ってしまう。でも、それでは空想を見つめてはいるけれど、相手を観察できていない。空想の中の相手を見ているだけ。これでは、相手が何を思い、何を感じているのかに気づくことができない。

私も同様の失敗を数多く経験して、「仲良くなろう」というのを忘れることにしている。その代わり、相手と接する時間と空間を、なるべく楽しいものにしよう、相手も楽しめ、自分も楽しめるようにしよう、と考えるようになった。

私は大阪出身だけど、そんなに笑いをとることができない。ヘタ。だから、相手が楽しめるように、といっても、どうしたらいいのかわからない。だからせめて「不快な思いをせずに済むような時間と空間を」と思っている。そのためには、相手をよく観察できている必要がある。

と言いながら、少し矛盾した話をしたくなった。結婚して間もなく、YouMeさんの田舎に行ったときのこと。披露宴以来、初めて会う親戚ばかりで、いったいどうやって時間をやり過ごそう、と私はいささか緊張していた。共通の話題を見つけられるだろうか?とか。ところが。

すごく居心地がよかった。みなさん寡黙で、ほとんど話さない。「おミカンどう?」「お茶、お代わりする?」というのが、20分に1回くらい声をかけられるけど、それ以外は沈黙。でも不思議とその沈黙が不快ではない。みなさんが「よう来なされた」と、歓迎してくれているのが分かったから。

笑いのとれない大阪人だけど、それでも沈黙が怖い大阪人。何かしゃべって沈黙を破らなければ、と思い込んでいたのだけれど、次第に、自分を歓迎してくれているその気持ちだけでありがたい、無理にお話ししてもらおうというのはむしろ不躾だと気づき、黙ってみかんを食べ、お茶を飲んでいた。

「よう来なされた」その温かな空気が部屋に充満していた。私も「温かく迎え入れてくれた」とほんわかしながらみかんを食べ、お茶を飲んだ。沈黙が不快ではなかった。それは恐らく、私をよく観察したうえで、適度に距離を置き、適度に放置し、適度に構ってくれたからだろう。

その経験から、「相手をもてなさなければ」と、過剰に相手を喜ばせよう、ヒマを持て余さないように、みたいなサービスをしなくてもいいんだ、と、肩の力が抜けるようになった。相手も一人になりたそうなら一人になれるようにそっと席を外す。話したそうなら話を聞く。黙っていたいなら一緒に黙る。

相手の様子を見て、相手の気持ちを察し、相手が不快な思いをせずに済むように、楽に過ごしてもらえるように、近づいたり離れたり。「仲良く」と考えると、密着しようとしてしまう。でも、適度に距離を置く、というのも、快適さとしては重要なのではないかな、と思うようになった。

子どもの頃の話だけれど、ネコを飼っていた。弟は大変面倒見がよく、エサをあげ、抱き上げ、撫でてやっていた。一方私は、受験を控えていたこともあってろくにエサもやらず、抱き上げもせず、撫でもしなかった。ところが不思議なことに、そのネコだけは私になついた。

私は不思議に思った。ネコへの愛情に関しては弟の方が圧倒的に強い。他方、私は受験のことで頭がいっぱいで、ネコに対してはドライ。むしろ冷たいくらいの態度。なのになんで?と不思議に思い、少し観察してみることにした。すると。

弟はあまりにもネコが可愛すぎて、自分のお小遣いで大好きな缶詰を買ってくると、喜んで食べる様子を早く見たくて、寝ているネコを叩き起こして「さあお食べ」とやっていた。ネコを抱きたくて、押し入れの中で寝ているネコを引っ張り出して抱きしめていた。ネコの都合は当時、頓着なし。

他方、私は受験勉強で忙しかったからエサやりはほとんどしなかった。でも家に私一人しかいない場合、ニャーニャ―鳴かれてエサをねだられる。そういう場合は仕方なくエサをやった。やはり家に誰もいないとき、ネコが撫でてほしくてやってきて、仕方なく撫でた。

家に誰もいなくて、誰かに抱っこして眠りたくなったネコが、ニャーニャ―鳴きながら、受験勉強している最中の私の膝に乗って寝た。
どうやらネコは、自分の都合を考えない「可愛がり」に拒否感を感じ、自分が求めた時に与えてくれる「可愛がり」を好んだようだった。

そうか、当時の弟は、ネコが求める前に「先回り」してエサをやり、撫で、抱いていたけれど、ネコからしたら自分の意向を無視された感じだったのか。他方、私は猫に対しドライで冷たかったけれど、常にネコの意向に「後回り」して対応したのが、ネコにとって心地よかったのか、と合点した。

ネコはイヌと比べると気まぐれ。イヌは常に自分に構ってほしい、見ていてほしい、というところがあるけれど、ネコは「ほっといてほしい」時間がかなり長い生き物。撫でてほしい、抱いてほしい、エサが欲しい、というのも、自分の都合で提供してほしい生き物。

こうしたネコ型の関係性を心地よいと思う人間は少なくないのかもしれない。この経験や、YouMeさんの田舎で過ごした時間空間の経験から、私は、基本、相手に構い過ぎない、むしろ基本放っておく、けれど観察は怠らず、相手が求めているようなら対応する、という「後回り」をするように心がけた。

すると基本、どの人も気が楽になるらしい。変に気遣わなくていいし、楽にしていられるし、好きなことに心を向かわせられるし、聞いてほしいときには話を聞いてくれる。そうでないときは放っておいてくれる。こうした「楽な関係」は、居心地がいいらしい。

そうだな、冒頭で「楽しい」という言葉を使ったけれど、「楽な関係」の方が適切かもしれない。不快な思いをせずに済む。助けを求めたいときに助けてもらえる。でもその助けも不要と思えた時には無理に助けない。そうした、基本放置、でも必要となれば対処をためらわない、という距離感。

私は職場でも、そうした距離感、関係性を維持できるように努めている。無理に親密になる必要はない。親密になる必要はないと考えているから、無理に話を続けよう、相手から根掘り葉掘り話を聞こうとも思わない。相手が不快な思いをせずに済むように、適度に距離を置く。でも。

相手が必要と感じる手助けはためらわない。それが済んだらまたほったらかし。でも、相手がいまどんな気持ちでいるかのアンテナは外さず、あれ?と思ったときは、「最近、どうですか?」と聞いてみる。要望があれば、無理のない範囲でそれに答える。そうした「猫の関係」を続けている。

そのおかげか、私の職場ではかなり長い間、楽しげな空気がずっと続いているように思う。笑い声がよく出てくる。私も楽しく過ごさせてもらっている。みなさん、適度に距離を置き、必要とあらば手助けをいとわない、という距離感とサービス精神を持ってくれている。少なくとも私にはかなり快適。

無理に仲良くなろうとする必要はない。親密になろうとする必要はない。相手が「楽でいられる」ようにする関係性。相手が不快でないならほっとく。相手が求めたら手助けする。終わったらほっとく。でも相手が何か助けてほしいという気持ちになっていないか、常にアンテナを張る。気づいたら即行動。

こうした職場になると、結構居心地のよい空間になるのかもしれない。ネコが居心地よく過ごせる空間。それは人間にとっても快適なのかもしれない。

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