嫌な説教聞かずに済ませる方法・・・「訊く」「驚き、面白がる」
説教考2。
実は、私は説教を聞くのが大好き。初めて会う年配者から一、二時間くらい話を聞くのはザラ。子どもの頃からそう。それはもしかしたら私が長男だったからかもしれない。生まれた時から大人だらけの中で、大人に立ち紛れて話をきくのが好きだったからかもしれない。
でも不思議なことに、昨日つぶやいた「子どもっぽい説教」を聞くハメになることはまずない。どんな人からも「大人の説教」を聞かせてもらえる。他方、説教から常に逃げることを考えていた弟たち(子供の頃)には「子どもっぽい説教」が向けられることが多かったように思う。なぜだろう?
私は「訊く」ことにしていたからかもしれない。お説教を毛嫌いしてる人は、早くこの災厄から逃れたいと身を伏せてる感じ。場合によっては聞きたくありませんオーラをあからさまに発散させ、話を聞く姿勢がない。拒絶姿勢。そこまでする勇気はなくても聞く気のない人は。
ひたすらこの嵐を耐え忍ぼうと、かりそめの相槌だけして、心の中で短く終わりますようにと願っている。しかし興味深いことに、これら拒絶的な態度は、「子どもっぽい説教」を誘発しやすいらしい。2つほど理由があるように思う。一つにはその失礼な態度に苛立つこと。で、懲らしめてやろうとマウント取りたくなる。
もう一つは、あまりに聞く姿勢がないためにどんなテーマを話さねばならないのか見当がつかず、ついつい話しやすい自慢話をしてしまうこと。私の観察では、強弱はあれど、説教を拒絶する姿勢が「子どもっぽい説教」を誘発しているように見えて仕方ない。
私は、「この人はどんな人生を歩んで来たのだろう?」と興味津々。しかしただ聞く一方では年配者も何を話したらよいのか見当がつかない。だから私は「訊く」ことにしている。「お話の最中すみません。どうしても訊きたいことがあるんですが、いいですか?」と、自分の興味関心のあるテーマを訊く。
「自分ではないのですが、友人でこんなことに悩んでいるのがいて」と訊ね、考えを聞かせてもらう。実際、なかなか答えるのが難しいテーマだったりする。けれどそういう話を真剣に訊く姿勢を持つと、人生経験総動員して一緒に考えてくれたりする。面白いことに、「難しいなあ」と一緒に悩んでくれる。
人生経験を話してくれたら、相手の話すままに聞くのではなく、「訊く」。「その時、どんな気持ちだったのですか?」「なぜその選択をしようと思ったのですか?」「今でもその選択でよかったと思われますか?」と訊ねると、考え込みながら答えてくれる。その「間」にその人の人生がにじみ出る。
相手が話してくれるたびに相槌を打つことも忘れない。「ふんふん」「へえ!」「ほお〜」。相槌を打ったら次の問いを発する。すると、問いに応じた答えをしてくれる。問いは私の興味関心のあるテーマだから、その答えは常に興味深い。「なるほど、そう稽えることもデキるのか」自分とは違う発想の発見。
私は年配者にはこれをやっていたので、年上の人と話すのは苦にならなかったが、年下と話すのは長いこと苦手だった。ところがソクラテスのことを知って、「なんだ、年下とも同じように『訊く』をやればよいのか」と気づいてから、若い人と話すのも苦にならなくなった。
ソクラテスは若者たちから人気があったという。プラトン「饗宴」では、アテネ随一の人気者、アルキビアデスがソクラテスから離れようとしなかった理由が語られている。どうやらソクラテスは若者と話すとき、一切説教しなかったらしい。ソクラテスは若者に「訊く」、そして「驚き、面白がる」だった。
若者が発した一言に「ほう、それはどういうこと?」「そいつは面白い、似たことにこういう話があるのだが、組み合わせて考えるとどういうことになるだろう?」「というと?」「そこをもう少し詳しく」などと問うていく。こうして「訊く」をされた若者はウンウン考え、言葉を絞り出す。
出てきた言葉にソクラテスは驚き、面白がり、さらに問いを重ねていく。こうすると、若者は今までつながらなかった事柄同士がつながり、新たな発想が生まれ、思考が深まり、まるで自分が智者になったかのように知恵がコンコンと湧くのを感じたらしい。ところがソクラテスのそばを離れると。
あれだけ湧いた知恵が枯れてしまう。だから若者たちはソクラテスのそばを離れようとしなかったらしい。ソクラテスと問答を重ねることを好んだらしい。
実は、松下村塾の吉田松陰もそうした人であったらしい。松蔭は少年のときに藩主に教えるほどの秀才だったが、この人の本領は別のところにあった。
黒船に乗りそこねて牢屋に入れられたとき、松蔭は同じ牢屋に入れられている庶民の人達一人一人から特技を訊き、牢屋の中でその人たち一人一人が先生となる教室を始めてしまった。
同じやり方を松下村塾に戻ってからも続け、自分が教えを垂れるのではなく、生徒とともに問い、答えに驚き、面白がった。
生徒は問われたことで必死に答えを絞り出す。出した答えに驚き、面白がる。そしてまた問う。こうしたやり取りを松下村塾では重ねられた。高杉晋作、伊藤博文など、多数の英雄が松下村塾から生まれた理由は、説教ではなく「問う(訊く)」からだったかもしれない。
昔の若者は、年配者の話をただ聞くだけではなかったように思う。「いかがでしょうか?」と悩みをぶつけ、その上で出てくる話を真剣に聞いていたもののように思う。問われれば、年配者もその話を真剣に考え、言葉を絞り出してくれる。若者も問われれば答えを絞り出してくれる。「問い(訊く)」は大切。
ただし「訊く」だけでは気恥ずかしくて真剣に答えてくれないことがある。だから「驚き、面白がる」が大切。真剣に話を聞いてることがそれで伝わるから、話す側の姿勢が改まる。「訊く」、そして答えには「驚き、面白がる」。そしてまた「訊く」。これを繰り返すと、どんどんテーマが深掘りされる。
自慢話という「子どもっぽい説教」を誘発してしまう原因は、「訊く」をしないからだと私は考えている。「訊く」ようにすれば、どんな人からも学びを獲ることができるように思う。なんせ、相手は自分と違う人だから。必ず自分とは異なる視点を持つ。それが新たな発見となり、データベースとなる。
私の強みがあるとすれば、いろんな人に「訊く」、そして「驚き、面白がる」からかもしれない。そのおかげで様々な人から様々な話を聴くことができ、私のデータベースになっている気がする。
社会的地位の高い人からしか話は聞きたくない、という人がいるが、もったいないと思う。
忙しいのだから社会的地位が高かったり尊敬を集めてる人からしか話は聞かない、という人がいる。なるほど、忙しければなかなか話を聞く機会はないかもしれない。しかし話を聞く対象を絞るのはもったいないと思う。そうした成功者達は、あまり裏側のことを話してくれない。だからつまらないことが多い。
むしろ、社会的にはごく普通の人たちからの方が含蓄の深い話をしてもらえる事が多い。人間ってすごいなあ、面白いなあ、と思う。いいカッコをしてる人は話も格好をつけているからなかなか本音を聞き出せない。だから、もっと多様な人に話を「訊く」のがオススメ。
私も五十を過ぎ、説教してくれる年齢の方が減ってきた。必然的に若い人と話さざるを得なくなってきた。でも、「訊く」ことを今後も心がけていきたい。私のしらない世界を教えてもらえるから。
対話の基本はもしかしたら、「訊く」、そして「驚き、面白がる」なのかもしれない。