「分割して統治」された日本
欧米には「分割して統治せよ」という統治術がある。ベルギーはルワンダを植民地にしたとき、鼻の高さなど些細な違いを理由にツチ族とフツ族に分け、片方を優遇することでいがみ合わせた。これが後の虐殺を生む原因ともなった。
国の内部でいがみ合わせると、統治者への憎しみが分散する。
「まさか」と思いつつも、もしかしたら日本で「競争原理」を流行させ、正社員と非正規社員とに分断し、いがみ合わせ、労働者がまとまらないように仕向けたのも、日本の活力を奪い、その間に漁夫の利を得る「統治者」による現代的な「分割して統治せよ」なのかもしれない、という気がする。
日本の強みは労働者が強いことだった。しかも会社への忠誠心も厚いという特徴があった。戦後、労働運動が盛んで会社と労働組合との衝突が絶えない中、カネボウは企業と労働者は同じ船に乗る運命共同体だとした(労使運命共同体論)。ここから、労使協調して企業の発展に尽くすというスタイルが定着。
しかし竹中平蔵氏の「これからは競争社会。頑張る者は報われ、頑張らない者は貧しくなる権利がある」という主張が登場。能力のある者もない者も賃金に大差ないのは「悪平等」と言われた。自分に能力があると自信を持つ人はこの主張に乗っかり、「悪平等」を破壊する行動に手を貸した。
一時は派遣社員を「専門技術を持つ高給取り」のようにもてはやし、自由と収入を両方得られる生き方としてもてはやしながら、やがて派遣労働を低賃金化。「正社員になれなかったのは実力がなかったから、頑張らなかったから」という呪いを浴びせた。
今や多くの企業で派遣社員や契約社員がいる。そんな中で労働組合は機能し得ない。正社員は労働者というより、派遣の人たちからすれば安定した生活を送るブルジョアに見える。実力に差はないのになぜ虐げられるのか?と疑問が消えなくなる。労働組合はどこも機能不全に陥った。
労働者は、分割して統治されている状態。ならば、この分割統治で利益を得ている者は誰だろう?と勘ぐりたくなる。競争原理を称賛し、不遇な境遇にある人を「実力や頑張りが足りなかったのだ」と吐き捨てる人は、この「分割統治」に手を貸し、日本の力を削ぐことに手を貸しているのかもしれない。
私達は竹中氏の弁舌に惑乱されて、競争原理とは他人を蹴落として利益を総取りすること、と狭く捉えている。しかし戦後昭和も技術開発の競争は激しかったが、どちらかというと「切磋琢磨」というものが多かった。たとえば家電なんかもそう。
人気機種は高く売れていたが、性能イマイチで不人気なのは安く売られていた。それでも市場から完全に排除されていたわけではなかった。やがて企業が技術を磨いて人気商品を作ることも。切磋琢磨し、技術を互いに磨いていた感がある。必ずしも競争は潰し合いを意味していなかった。
戦後昭和の企業経営にもいろいろ問題はあったが、会社での運動会もあり、部活もあり、会社との一体感があった。それが勝ち組・負け組に分断されて、会社としての一体感を醸成することが非常に困難になった。
労働者の分断は、「統治者」にとって都合のよい状況を生んでいるのではないか。「統治者」はもしかしたら日本の弱体化を望んでいるのかも。日本の現在の惨状を見てもなお労働者の分断を促す言動を続ける人は、もしかしたら日本の弱体化を願う「統治者」に手を貸しているのかも。
そう邪推したくなるほど、労働者の分断は日本の弱体化に好都合。これに手を貸すことは、日本に住む私としては賛成しかねる。
「分割して統治せよ」は、古代ローマが異民族を統治するために使った手法。しかし日本はなんと、自国民に使用し、自国の強みを破壊し、自国の豊かさを破壊している。この動きに拍車をかけたのが竹中平蔵氏。一体竹中氏は何を思ってこんな所業に出たのか?釈然としない。