「安いことはいいこと」か?
私が子どもの頃の、もう40年も前のこと、ペンチ(ラジオペンチ)は1つ数百円した。その価格は納得できるものでもあった。ペンチが日本で年間に売れる数は決まっているだろう。1つ作るのにどれだけの手間と時間がかかって、職人の人件費を・・・などと考えると、その価格になるのは納得だった。
ところが百円ショップの登場で「値ごろ感」が破壊された。数百円したはずのペンチは100円になった。ではどうやって一気に数分の1の価格に下げられたのだろう?技術革新?イノベーション?
いや、単純に少ない人数で大量に生産しただけのこと。しかも外国で。
100円ショップが登場するまでは、ペンチは数百円の価格と1年に日本で売れる総数を掛け算した金額だけ売り上げを出し、それに見合う雇用を生んでいただろう。しかしペンチが100円で売られるようになったら。安いから不必要でも数個買う人はいるかもしれない。でも4個でも400円の売り上げ。
ということは、ペンチ全体の売り上げが大きくなるわけではない。1つ数百円していたときと、100円で売るようになったときとでは、総売り上げは同じ程度にしかならないだろう。となると、売り上げ総額は増えていないのにペンチの数だけ増えることになる。それはつまり、その分働かなきゃいけない。
しかも働く人は、外国だったりする。そのペンチを国内で作っているとは限らない。となると、100円ショップが登場するまでは、ペンチは日本人の職人を雇用することに売り上げが役に立っていただろうが、100円ショップのペンチが中国などで作っていたなら、中国の雇用は増えても日本人は雇用減。
日本人の雇用が減るということは、日本で消費者が減る、あるいは消費額が減るということになる。だって、お給料もらえなければものを買えない。
安く売って価格破壊することは、経済的には得になるとは限らない。むしろ雇用を破壊し、日本経済を悪化させかねない。
いま、農業について提言をする有識者の中には、コメの価格を下げろという意見がある。北海道や新潟などコメの産地は広大な田圃を持っていて、大型化しやすい。もっとコメの価格が低下してもやっていける。そうした「強い農家」だけにコメを作ってもらえばいいじゃないか、と。
しかしそれは、「ペンチ」と同じことになるのではないだろうか。コシヒカリなんかやめて、もっと量のとれる業務用のコメを育てたら、もっと安くコメを提供できるという。そうなれば消費者は食費を抑えることができ、他のものを購入するのにお金を回せるじゃないか、というが、本当だろうか。
コメの価格が半分になれば、コメを倍食べるかというと、人間は胃袋のサイズが決まっているから、コメの消費量は増えないだろう。だとすると、コメの売り上げ総額が半分になるだけだろう。すると、コメに関わる雇用が半分に減らないとやっていけないことになる。ということは。
コメ関連の業界で雇用が半減し、半分の人たちは路頭に迷う。その人たちが低賃金の労働につかざるを得なくなれば、その人たちは消費を抑えることになるだろう。結局、消費全体が減ることになりかねない。安く売るというのは、結局社会のどこかで人を雇えなくするということ。
いま、ヨーロッパで食事をすると、大変な金額になるという。日本なら1食1000円で食事できるのに、ヨーロッパだと3000円くらいかかるという。ちっとも安くない。小麦などの穀物は安いのだけれど、パンに加工すると人件費がかかるのでそうした価格になってしまう。
しかし西欧では、そうした価格で購入することで雇用が守られている、ということを子どもでも習って知っているという。安売りは結局自分たちの首を絞める、ということを西欧の人々はよく承知しているらしい。
戦後昭和の、コメを高価格で消費者に売らざるを得なかった政策は、今では擁護者が見当たらない状況。でも私は、賞賛するとまではいかないまでも、絶対的な間違いだと批判してよいものか?という疑問を持っている。
コメが高く売れるから、兼業農家がなかなか農業をやめなかったのも事実。小さな零細農家なのにトラクターを買って、狭い農地をチマチマと耕していたのも事実。このために、本気で農業をやろうという農家(主業農家)に土地が集まらず、効率的な経営が進まなかったのも事実。でも。
トラクターがたくさん売れれば、トラクターを作るメーカーは儲かる。その分、雇用も増える。コメが高ければ、流通にお金をかけることもできる。すると、流通小売りでも雇用を抱える余裕ができる。なるほど、消費者は懐が痛いが、社会全体のお金の巡りはよくなる。
コメが高かったことは本当にダメだったのか?そこをもう一度問い直すのも大切なことのように思う。当時はバブル経済などもあって、みんな収入が多かった。だから高いコメでも食べることができた、という面はある。コメのブランド化が進んだのも、豊かだったからだろう。
けれどもし、日本がこれからどんどん貧しくなるなら、逆の現象が起きるだろう。ブランド米は維持できず、「食えたらいい」という低品質の安いコメが増えて、安く食べられるから企業も「この低賃金でも生きていけるだろ?」と給料を下げようとするかもしれない。デフレ傾向を強めてしまうかも。
農家はもっと減っていい、のかもしれない。どうせ少子高齢化で、農業に人を回す余裕が日本にない。少ない人数でコメや他の農産物を作っていただく必要がある。でもその際、「より安く」を求めてよいのかは疑問。安さを求めれば、その業界で雇用が減るばかりではなく。
結局社会全体で雇用が減り、給料が減る悪循環のように手を貸すことになる。「より安く」は、低価格でもやっていける競争力のある企業が独占的に儲けることはできても、社会全体でみれば雇用が減り、給料が減り、消費が減ることになる。それっていいのだろうか?
先週、新潟県で講演させていただいた。現場での話を聞いたところ、新潟は平野が広く、もっと安い価格でも戦える大規模農家が多いという。むしろコメが安くなってくれたほうが、体力の弱い農家がコメをやめるようになり、生き残った者勝ちになれる、と歓迎する声もあるという。
でも、そううまくいくのだろうか?という気もする。コメを安く作れない地域がコメをやめ、新潟や北海道など、価格競争に強い地域だけがコメの産地として残ったとしよう。では、そこの大規模農家は儲かるのだろうか?たぶん、そうはならない。
低価格で売らざるを得ない割に、他の農家がやめてしまったぶん、たくさん作らねばならないだろう。売り上げは伸びないのに作らなきゃいけないコメの量が増える、ということは、それだけ自分が必死に働かねばならないということ。以前は半分働けば稼げた額を、その倍働いてようやくトントンかも。
低価格競争は、それを生き延びた人でも得をするわけではない。ギリギリの生活を余儀なくされる恐れがある。
他方、高価格の時というのは、不利な地域でのコメ生産はギリギリかもしれないが、有利な地域では楽して稼げる。経費もかけないから利潤が大きい。
倍働いても同じ利潤、半分働いても同じ利潤。どちらの方が得だろうか。私は後者のように思う。しかし安売り競争で生き残っても、前者の方で終わる恐れがある。いいのかな?それ?という気がする。
私たちはデフレ経済を30年生きてきたために、安いものに飛びつく癖がついているし、「安いことはいいことだ」教の布教ばかり受けてきたので、それ以外の発想をすることが難しくなっている。でも私たちは、デフレスパイラルが自分の首を絞めることに気づき始めている。
今回の物価の値上がりは、ロシアによるウクライナ侵攻や石油高騰、円安などの原因がある。私たちの生活をこのために圧迫している。しかしこれを機に、「安く」ではなく、「給料を高く」にシフトしたほうが良いように思う。物価上昇に見合う給料の上昇。
給料が上昇しても、物価がさらに上昇すれば生活は厳しくなる。けれど、安値ばかりを追い求めたら、それはいずれ私たちの給料を押し下げることにもつながる。安値を求めるより、給料を上げる。この方向に社会をシフトさせた方が良いように思う。