将棋や野球はプロになれなくても生涯好きでいられるのに、勉強とピアノは嫌いになるのはなぜなのか
昨日のウェブ飲み会では「親は頑張るべきか?」というテーマで議論。その中で「なぜ将棋や野球はプロになれなくても生涯好きなままの人が多いのに、勉強とピアノは嫌いになる人が多いのか」という話が出た。「親が強制するからだ」という点で同意した。まあ、その通りだと思う。
野球でも、親がやたら熱心で強制するタイプと嫌がる子どもが出ることがある。将棋や野球を嫌いになることか少ないのは、それを強制する親や大人が少なく、そのために好きでい続けられるからかもしれない。
他方、勉強やピアノは親が強制することが少なくない。こうなると高確率で嫌いになるらしい。では強制しなければ勉強やピアノも嫌いにならないのか?というと、私は実はそう思う。
大学受験まで勉強が大嫌いだった人が、大学に入ってから好きなことを学べるようになったという人は結構いる。
学校生活では体育大嫌いだった人が、大人になるとマラソンや自転車、トライアスロン、山登りなど、体を動かすことにハマる人がいる。これは、スポーツの得意な人間と比較され、ダメ出しされることがなくなり、強制されることもなくなるからかもしれない。
学校生活では全く勉強しなかった人が、働くようになると仕事に関する調べ物を嬉々としてやるようになったりする。これも強制する人がいなくなり、自分が好きで学ぶからなのかもしれない。
どうも、嫌いになる原因の少なからずが強制や比較ではないか、という気がする。これが学びを「勉強」に変える。
そして冒頭のテーマ「親は頑張るべきか?」なんだけど、親が頑張ると子どもに強制しがちとなり、子どもは勉強や読書を嫌いになる可能性が高くなるように思う。「私が(オレが)こんなにもお前のために頑張っているのに」と恩着せがましくなり、子どもはそのプレッシャーに押しつぶされる。
よく、子どもに読書をさせたいなら親も読書すればいい、という話が出てくる。しかし親がイヤイヤ読んでいたら、それは伝わると思う。本を読むなら楽しそうに読んでないと、子どもも器用身が持てないのではないか。何より、親が見本となる必用を私は感じない。
私もYouMeさんも、子どもの見本となるような人間になろう、とは思っていない。無理。欠点の多い人間なのに、完全無欠のフリしても子どもたちに見抜かれるに決まっている。こうしたほうがいいな、と思えることは実行するけど、そんなに無理をするつもりはない。
「子どもは親の背中を見て育つ」ことから、「親の背中を見せる」なんてフレーズを最近はよく目にする。しかし背中というのものは見られるものであって見せるものではない。見せたい背中は見てもらえずに見てほしくない背中ばかり見られるのが関の山。なんでそんなに見本になりたがるのだろう?
私は若い頃、自分のだらしなさ、人間としてのダメさ加減に絶望し、「私は人を育てる資格がない」と悩んだ時期がある。子どもたちに見本を見せねばならぬとしたら、子どもたちはダメダメな私の劣化コピーにしかならないではないか、と。
でもあるとき、「ちょっと待てよ」とも。
トンビがタカを生む、なんてことわざがある。出藍(青は藍から作るのに藍より青い)なんて言葉もある。どうやら世の中には、親や師匠よりも優れた人間に育つということがあるらしい。それは遺伝子の突然変異なのか?それとも何かコツがあるものなのか?
旧帝大の学生で、漁村出身の人がいる。両親は中学を出ただけで学歴はなく、読書もしなかったという。親が見本を見せねばならぬ、親が本を読まなければ子どもも読まぬ、という世間で流布している「法則」からしたら、最悪の条件に思える。しかしこの学生は親を尊敬し、深く感謝もしていた。
親は、読みたいと言ったら本を好きなだけ買ってくれたという。そしてわが子に「お前はもうこんな本を読むのか!」と驚き、喜び、トンビがタカを生んだと笑っていたという。
これじゃなかろうか。その子どもが読書を好きになり、学ぶことを好きになったのは。
親が見本を見せるのではなく、子どもに見本を見せてもらい、それに驚く。すると子どもは嬉々として親を驚かそうと企み、成長しようとする。漁村の親御さんが子どもに見せた姿勢はそれではないか。それは子どもの学習意欲を非常に高めるものではないだろうか。
「朝イチ」という番組で、いくら注意しても道路に飛びてしまう子どもたちを集め、次のような実験をした。「親は目隠しします。君たちが安全に親を道路の向こうに渡して上げて下さい」すると1人残らず、左右を念入りに確認し、親の手を引いて慎重に渡った。「何度注意しても左右確認しなかった子が!」
親御さんは恐らく頑張っていたと思う。子どもに左右確認するようにしつこく言い、子どもが道路を飛び出そうとすれば大声で制止し、飛び出したら叱り。できることを一所懸命にしていたと思う。しかしそれらの努力、頑張りは「子どもに頼る」という一事に勝てなかったことになる。
親が見本を見せようと頑張るより、子どもに見本を見せてもらって驚くほうが効果は高いのではないだろうか。子どもは親を驚かすという楽しみを見つけて、また親を驚かそうと企む。これが子どもの成長にドライブをかける一つの要因になるように思う。
私もYouMeさんも、無理して子どもたちに見本を見せようとは考えていない。そんな環境の中で子どもが教えたこともないことを始めると「え?なんで?」驚かされるハメになる。それが子どもの学習意欲にドライブをかけることになる。このやり方はとてもラク。だって頑張らなくていいんだもん。
頑張るのは親ではなく、子ども。でも「頑張る」って言葉もおかしいな。子どもは好きなことを好きなようにやってるだけだから、頑張ってる気はない。好きなことには子どもはほっといても熱中するから、ものすごく伸びる。伸びるから親は驚く。その好循環が起きてるだけだと思う。
ここで「好きなことばかりしていてはダメ」という意見が出てくることが多い。「得意でないことにも取り組み、苦手をなくさなければ」と。
ここで私は父の言葉を思い出す。「長所を伸ばせば欠点は隠れる」。欠点を改めようとするとかえって欠点は増幅する。欠点なんか無視して長所だけ見ればいい、と。
私はこの言葉を援用して「好きなことを伸ばせば苦手なこともどうにかなる」というふうに考えている。苦手なこと、興味の持てないことって、子どもは全く乗り気になれない。それをやらせようとすると「頑張る」ことになる。言い換えると「無理をする」ことになる。無理するとやる気がなくなる。
「好きなことばかりしないで苦手も克服して!」とばかり強制したり、何とかやらせようとすると、子どもは親の制御自体を嫌がるようになりかねない。ひいては勉強嫌いになりかねない。ピアノを習う前はピアノが大好きだったのに、退屈な基礎を強制されるとピアノ嫌いになるのに似ている。
私の子どもは好きな本を好きなように読んでいる。好みがそれぞれはっきりしていて、興味のないものは読まない。しかし好きなものを読んでる間に知識は広がり、以前は興味を示さなかった分野領域にまで興味が拡大するようになっている。
たとえば息子は、以前は歴史に全く興味を示さなかった。しかし漫画の「風雲児たち」を読んでハマり、今は江戸時代マニアになりつつある。数学好きから暗号が好きになり、どうやらそこから手話にも興味を持ったらしい。漢字もパズル感覚で面白くなってきたらしい。
今は息子は、全分野に興味関心を広げている。娘も同様。好きなことをとことん学んでいたら、以前は興味のなかった分野にまで興味が広がった。
これは私自身も感じる。農業研究者として食料問題に興味はあったが、本来経済学やエネルギーにはさほど関心がなかった。しかし食料問題を追究するうち、
経済が農業にもたらす影響やエネルギー問題に関心が自然と広がった。拙著「そのとき、日本は何人養える?」をお読みになった方はすぐに分かるだろうが、食料問題の話をしていたら、ありとあらゆる分野の話をせざるを得なくなった。興味関心から始まってるから、私も楽しく調べられた。
食料問題という非常に狭いテーマから入ってるのに、ありとあらゆる分野に通じていった体験から考えると、「好きなことをとことん楽しんでいたら、自然に興味関心は広がり、知識も広がる」と考えている。もしそうなら、わざわざイヤなことを「努力して」「頑張って」やる必要はない。
子どもが好きなことをトコトン学んで、親はその様子に驚き、面白がっていたらいい。そう思えるようになってから、楽になった。この姿勢だと、親が立派でなくても、見本を見せなくても子どもはどんどん成長していく。もちろん、子どもがどれに興味を持つかは制御できない。でも、
好きなことから入ればいい、と考えていたら、自然に興味関心は広がっていく。興味関心があって取り組むから、集中度が違う。頭への定着度も違う。理解度も違う。しかも分野横断的な理解をする。忘れない。説明も上手くなる。なにしろ大好きだから人に話したくて仕方ない。
息子は今、ポケモンのタイプ別分類表を作成中。いわゆる勉強から考えたら全くのムダと思われるかもしれないが、私はそう思わない。分類するという作業は、どんな分野でも行われること。こういうことを趣味から始めることは、能力を磨くことになってると思う。こんな面倒なこと、好きでないとできない。
好きだから面倒とも思わずに取り組める。取り組むからそうした能力が磨かれるし、その作業自体も楽しめる。そうした記憶は、他の分野に突入するときにも活かされるように思う。好きなことを楽しんで熱中すれば、おのずと分野は拡張し、能力も拡張し、苦手もそれなりに克服するように思う。
私としては、努力したり頑張ったりするより「楽しんじゃえ」。親が努力するんじゃなく、子どもが活躍する。親は自分が頑張るんじゃなくて、子どもが活躍することに驚かされ、面白がってればよい。そうすれば、「トンビからタカ」が生まれるのだと思う。