「よそ者」考 郷に入っては郷に「驚け」
「よそ者」考。
農業の研究やってると、よそ者が農村に入ってきてイザコザが起きる話をよく耳にする。多いパターンは、大企業勤めの経験のある人が「このど田舎に俺の貴重な経験を教えてやろう」というもの。そして村の慣習を因習と決めつけ、偉そうに説教始めて、疎まれるタイプ。
関係がこじれると、もと都会人は「田舎者めらが!」と見下し、田舎にもともといる人は「なんや、感じの悪い人」となる。都会人が田舎に新風を入れてやろう、と、自分が優位に立ってると考えるとき、よそ者は不適応を起こしがちな気がする。
他方、すんなり順応する「よそ者」も少なくない。
「えー!これどうやったらできるんですか?」「うわー、こんなの、頂いていいんですか?」田舎で目にするもの耳にするもの、全て新鮮で驚き、面白がるよそ者には、みな親切。そして寄り合いがあれば「あの若者に、よそから来た視点を教えてもらおうよ」と、「よそ者」の話に耳傾けようとする。
村の素晴らしさを知ってる若者が、遠慮がちに語る言葉には、「もうちょっと遠慮なしに、思ったことを言ってくれ」と、むしろ聞きたがり、感心し、「よそから来た人もこう言うことだし、この際変えようか」と、すんなり変化したりする。よそ者が新風を入れ、しかも友好的。何が違うのだろう?
前者のよそ者は、田舎者は自分より劣っている存在で、自分を崇め奉るべきなのだ、という姿勢で臨んでいる。これだとうまく溶け込めなくて当然。相手を自分の下位に置いているのだから。
他方、田舎にあるものの新鮮さに驚き、面白がる若者に対しては、つい心を開いてしまう。
あとにも先にも一度きりだけど、先斗町の小料理屋に「京都の勉強だ」と連れて行ってもらったことがある。
外から、「京都のことなら何でも聞いてくれ!」とガハハ笑いが近づいてきた。「お、この店にしよう」と扉を開けたのは、実に値の張りそうなスーツを着た男性二人。入ろうとすると、店の主人は。
「すみません、予約が入っておりまして」と、空いてる席は空いていない、と伝えた。仕方なく、ガハハなお客さんは立ち去った。まだ二十歳になったばかりの私は、いつ予約客が来るんだろう?と思った。一時間たっても、その予約客とやらが来ない。やがて、恐る恐る戸を開けたのは、女性客二人。
「あのう、京都のお料理を勉強したいんですけど、よろしいでしょうか?」店の主人は「どうぞ」と、予約席にそのお客さんを座らせてしまった。「え?」目をむく私に、ニンマリと笑う父とその友人。
その女性客は、京都の料理に驚きの声を上げ、店主も丁寧に材料や調理の説明をしておられた。
店を出たあと、父とその友人が、私に解説してくれた。「京都人になるには3代かかる、と言われている。初代、二代目はまだよそ者。三代目の、生まれた時から京都に住んで、ようやく京都生まれと認定される。偉そうなよそ者は、丁寧にあしらわれつつ、バカにされる。けど、謙虚な姿勢の人には優しい町」
これは京都に限らないんじゃないかな、と思う。古い町や村にある慣習は、長い歴史の中で生き残ったもの。何らかの理由がある。それを単に因習だと決めつけるのは、無頓着に過ぎる。
しかし村の一つ一つに感動し、驚いてくれる人には、心を開く。改める姿勢も生まれる。なぜか。
自分たちの村に驚き、面白がってくれる人を受容したいから、よそ者であるその人の心地よいよう、改めるものは改めたくなる。驚き、面白がってくれる人には、逆に自分も驚き、面白がりたくなるものらしい。京都も田舎も、よそ者を受け入れる条件は、同じなのかも。
これは、京都だから、田舎だから、というより、初対面のときにはとても大切なことなのかもしれない。社会的地位の高い人って、丁重に扱われることに慣れて過ぎて、初めての場所でも偉そうにして、失敗してるケースをよく見る。
でも、たとえ社会的地位の高い人でも、初対面の人の話を面白がる人は。
すんなりその場に溶け込んでる。つまり、初対面で「高い社会的地位」は関係ない。むしろ勘違いを生みやすいという点で、害悪かも。社会的地位なんか忘れて、初対面の人の話に驚き、面白がれば、対話は大概うまくいくような気がする。
人間はどこか、「チヤホヤ願望」があるらしい。違う世界に飛び込んだら、「あなたはスゴイ!」と皆が驚き、チヤホヤしてくれるコミュニティを作れるのではないか、という幻想。アニメ「はなかっぱ」で出てくる、ちいかっぱがよくやってる妄想にそっくりな。
でも、人間関係をつくる上で大切なのは、自分のことで相手に驚いてもらおうとするのではなく、まずは自分が相手に驚き、面白がることのようだ。考えてみれば、これは営業では定石。相手の話を聞き、驚き、面白がる。それによって相手の心を開かせる、テクの一つ。
けれど営業マンも、仕事から離れると、自分が驚くのではなくて、相手を驚かせたくなるらしく、関係をこじらせる人もいる。人間関係はまず相手に驚くことから始めるものだ、と、仕事で学んでいるはずなのに。
私の家の庭に、ビクともしない巨岩があった。それを八十過ぎのおじいさんがいともたやすく動かした。テコの原理を使うのは私も承知していたけど、岩の重心に力点からの力が伝わるようにテコを動かさねば岩は動かない、というのを実地で教えられると、岩の重心がどこか見当がつかない私には、なんと経験値の必要な、難しいテクなのか、驚いた。
丸太をくり抜いて蜂の巣を作ろうとしてる別のご老人。切り株をくり抜くには、下から削った方がよい、という理屈は、聞けばなるほどだけど、チェーンソーを巧みに操ってくり抜く手際に私は驚かされた。
私もYouMeさんも驚かされるばかり。驚いてばかりいたら、皆さんよくしてくださる。ありがたい。
そして、私みたいな新参者の若造の話に耳を傾けて下さる。時折、驚きの声を上げて下さる。そうか、人間関係って、まずは自分の方から、相手の話に驚き、面白がることが大切なんだな、と気がついた。すると、相手もこちらに興味を持ってくれて、互いに驚き合える関係が作れるんだな。
驚き、面白がる、というのは、人間関係を最初につむぎ出すのに大切な様式のように思う。文化人類学の研究者が、見知らぬ民族を調査する場合もこの姿勢。これは、人間心理に寄り添ったアプローチなのかもしれない。