人工知能と似た学習

人工知能(深層学習)には早くから関心があり、人間の学習にも通じると常々思っていた。面白いのは、人工知能が深層学習で学んだことは、コピペできないこと。一台の人工知能にたくさん学習させて、その学習の成果を別の人工知能に移植しようとしてもできない。

また、深層学習では、学ばせることはできても、教えることが基本、難しい。教えたとしても、それは学びの一つでしかない。深層学習で適切に学びを成立させるには、変に教えるより、たくさんの事例を学ばせる方がよい。

また、ただたくさん学ばせるのでもダメ。「目の着けどころ」を示す必要がある。たとえばネコの存在を画像から見抜く学習をさせるには、まずは人間がネコのいる写真を用意し、それに「タグづけ」(ネコがいるよ!と印をつける)して、学ばせる。目の着けどころを手がかりに、見抜く力を養う。

もしタグも何もなしで、たくさんの写真を見せて「さあ、学べ」つったって、手がかりがなさすぎて無理。「目の着けどころ」を示さないと、深層学習しようにもできない。これ、人間も同じように思う。

まるっきし同じ画像を繰り返し学ばせても効果がない。角度とか彩度、明るさ、そもそも違う画像などを学び、様々な違いがあっても「目の着けどころ」を手がかりに、何に着眼すればネコを見抜きやすくなるのか、学習していく。これ、漢字の書き取りにも言えないだろうか?

つまり、教える側は、学ぶ材料は提供できても、人工知能の中でどんな学習が行われるかは、「祈り」に近い。それでもノウハウはあって、タグづけするなど、目の着けどころを示すことで、人工知能の中に知識が「自己組織化」されるのを促すことができる。これは、人間でもそうだと思う。

コピペはできない。教えることもできない。たくさんの異なる事例を学ぶ必要がある。目の着けどころを示す必要がある。内部で知識が「自己組織化」されることを祈るしかない。
これらは、人間の学習にも通じる話だと考えている。

一つ、人工知能と違うところがある。意欲。
人工知能は、たくさんの学習材料を並べて、「学べ!」と指令を与えれば、自動的に学習し出す。しかし人間はそうならない。なんなら他人から言われたことはテコでも動きたくない。学ぶことは自発的である必要がある。それには意欲が必要。

では、意欲はどうしたら湧くか。楽しむこと。楽しければもっとやりたくなる。止めたって反復したくなる。様々な角度から観察したくなる。気づきが一つ見つかったら、改めてそれをタグにして、観察し直してみたくなる。楽しむことこそ、意欲の源泉であり、学びの基礎。

私の塾には勉強嫌いの子ばかり来た(好きなのはわずか)ので、勉強を楽しむなんて、言語矛盾だった。
私が最終、たどり着いた指導方法は、「教えない」だった。
「ねえ、教えて」と言われても、「教科書を読んでごらん」と勧めるだけ。「ヒントちょうだい!」と言われても、「教科書読んでごらん」

「ちょっとくらいヒントくれてもいいでしょう!」と腹を立てても、「大丈夫、読めばきっと分かる。読んでごらん」
教科書パラパラめくって「この辺かなあ」と、私の目を覗き込みながら探りを入れてきたら、「そう思うなら、そこを読んでごらん」やった、アタリがついた、と喜んだら、見当違い。

「意地悪!ちょっとくらい教えてくれてもいいでしょ!」涙を流しながら抗議しても、正面をしっかり向いて「大丈夫、読めば君もきっと分かる。教科書を読んでごらん」。
突っ伏して泣く子ども。様子を静かに見守る。「大丈夫。読んでごらん」

落ち着いたところで、この人は本当に教えてくれないんだと観念し、しかしイヤミったらしくこれ見よがしなため息ついて、仕方なく教科書を最初からめくっていく。すると、問題とよく似た記述が。「先生、ここ、似てる」
「おお、よく気がついたね。ゆっくり読んでごらん」

時間をかけてゆっくり読み、例題を解いてみたら、解けた。練習問題を解いてみたら、できた。なら、この問題は?「先生、丸付けして」
「おお、正解!やったなあ!よく自分の力だけで解いたなあ!」とハイタッチ。
「ここ、似てると思ったんだよね!」一気に顔が晴れやかに、そして誇らしげに。

「その調子で、次もやってごらん」と言うと、「うん!」と力強い答え。自分の力で、教えられずに理解できた、解けるようになったという快感、喜びが、自ら学ぶことを楽しいものにし、学ぶ意欲を生む。その子から、指導の基本形を教えてもらった。

楽しむには、自分の力で解決した、打破した、という能動感が必要。誰かに教えられたという受動感があると、つまらない。能動感を味わえると、もっとやってみたくなる。楽しくなる。その能動感の形成さえ手助けすれば、後は勝手に学び始める。

実際、自分の力で学ぶことの楽しさに気づいた子は、今度は安易に教えられることを嫌がるようになる。「それ、難しいやろ。教えたろか?」と言うと、「イヤだ!もうちょっと自分で考えさせて!教えないで!」と、まるでクイズを楽しんでいるかのよう。

自分の力で何事かを成し遂げた、という感覚、私の言葉で言う能動感(自己効力感にかなり近い)を味わえると、それが知識の「自己組織化」の核になると考えている。この核を得たものは、後は勝手に学び続ける。この能動感をどう味わわせるかは、子どもによって変える必要がある。

教えるのではなく、能動感をいかに味わわせるか。それが、自ら学ぶ人間に育つ要諦のように感じている。

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