能動感がゲームに変える
夏休みの宿題を1日で終わらす!と意気込んでいた息子(小三)。学校の連絡で「一気にやらず、毎日コツコツやりましょう」とクギを刺され、意気消沈。先生に面談でお願いし、「君なら宿題なんかすぐ終わるだろう、そしたらサイン、コサイン、タンジェントの研究をしてくれ」と言ってもらった。
とはいえ、出鼻をくじかれた形なので、やはり案の定、今日は全く宿題をやろうとしてなかった。まあ、予想済み。
「さあ、ご飯の前にお風呂に入ろうか」と声をかけたら、「さあ、宿題をしようか」と言い出した。なぜよりによってこのタイミングに?でもそれも想定の範囲。
「もう宿題なんかいいじゃないか、お風呂に入ろう」
「いや!やる!」
「やめろ!やめておけ!なんでそんなマジメなんだ!邪魔してやる!こら!何する!どこへ行く!何持って行ったんだ!やめろ!」
熱心に宿題やり出した。
「どんだけ頑張りやさんなんだ!仕方ない、一問だけ解いたらお風呂に入ろう」
「一問だけで終わると思う?」と挑発的な発言。
「やめろ!もう手を止めろ!・・・ウーム、仕方ない、その一枚終わったら、お風呂に入ろうな」
無言で宿題を続ける息子。
「・・・ちょっと待て、いつまでやってるんだ?」
「あ、プリント四枚終わったとこ」
「なんでそんなにやってるんだ!うん、もうよく頑張った。やめよう。ちょっと休まないか?」
「ヤダ」
「国語終わった。ねえ、算数やってもいい?」
「どんだけやるねん!もう、仕方ないな、一枚だけだぞ、無理するなよ」
「ヤダよ~」
なんか、本当に一瞬で宿題終わりそうな勢い。
子どもは、宿題をやれ!というとやらないアマノジャクが多い。やれと言われてやったら、命令した人間のおかげで宿題をやりました、と屈従する形になる。多くの子どもはこれを察知するから、言えば言うほど嫌がり、やらなくなる。
そして、そうしたアマノジャクな子どもが宿題をやろうと言い出すのは決まって、お風呂や食事にしようというタイミング。これも想定済み。
そこで「それはいいね!」などと勧めてもやる気は失われる。人の期待通りなのは面白くないから。そこで面白くするために、邪魔する。むしろ制止気味にする。
すると、アマノジャクは燃える。艱難辛苦をものともしないオレ!というイメージが大好きだから、その舞台を用意する。「もう終わる?終わろうよ」と声をかけて、やめるようにやめるように声をかける。すると、ますます燃える。邪魔をすればするほど能動感は強まるから。
障害があればあるほど、能動的に立ち向かわなくては前に進めない。そうした場合、その困難を乗り越えるのは達成感が強くなる。強い自己効力感が得られる。だから達成感や自己効力感と呼んでもよいのだが、能動的に動かずにはいられない感を出すために、私は能動感と呼んでいる。
ゲームなんかも、敵がいろんな邪魔をしてきて、それをなんとかクリアするのが面白い。しかしクリアするためには、能動的にならなければならない。能動的になって初めて得られる達成感。それを能動感と呼んでるわけだけど、これがあると、何でもゲームになってしまう。
私は、宿題をやろうとする息子の邪魔をする敵。もう宿題なんかやめて別のことしようぜ!と誘惑する敵。すると、そうした敵と戦い、乗り越えていくというゲームに変わる。私は、ゲームの敵役を演じる。すると宿題は、どんな邪魔が入ってもやり遂げるべきゲームに変わる。
何でも遊びにしちゃえばいい。ゲームにしちゃえばいい。すると、子どもは恐るべき集中力を示す。
ちなみに、一連のツイートはまさに現在進行形で打ったのだけど、プリント10枚を30分程でやり切った。
私の制止する声を振り切って。邪魔すると集中する。オモロい。
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