優れた教師はボケがうまい?
「自分もかつては教師の威厳を保つために、子どもを支配し、子どもを服従すべきだと思っていた。そして子どもを抑えきれなくなったらどうしようと心配していた。しかし自分が真によい教師となったのは、子どもを支配しきれなくなった時からであった。」
A.S.ニイル「問題の教師」p.2
宮口幸治「ケーキの切れない非行少年たち」にも同様の記載がある。以下、p.155より抜粋。
「もともと勉強嫌いで学校での授業など真面目に聞いたことのない少年たちですから、私も「やはり駄目なのだ」と思いました。そして私はだんだんと指導するのが嫌になり、投げやりになりました。とうとう私は、教えたり問題を出したりするのを止め、文句を言っていた少年たちに「では替わりにやってくれ」と彼らを前に出させ、私は少年側の席に移りました。 彼らに私の苦労を体験させようと思ったのです。
ところが、そこで驚くことが起きました。私を無視していた少年たちが「ボクにやらせて下さい」「ボクが教えます」と先を争って前に出てきたのです。そして、とても楽しそうに皆に問題を出したり、得意そうに他の少年に答えを教えたりし始めたのです。 前に出ていない他の少年たちも必死です。 同じ立場の少年から出された問題に答えられなくては恥ずかしい、自分が前に出たときに無視されたら嫌だ、といった気持ちが生じたのだと思います。皆真剣にトレーニングに参加するようになりました。表情も生き生きとしてきました。」
ニイル氏と宮口氏は、ほぼ同じことを言っている。自分が立派な教師として、教えよう、教えようとしている間は上手くいかなかったのに、子どもたちが自ら能動的に教えよう、学ぼうと動き出したとき、子どもたちは勝手に学びだし、成長し出した。これは私の体験とも一致する。
私は当初、教えようとしてばかりだった。私の学習テクニックを子どもたちに移植すればきっと成績がグンと伸びると思って。ところが、成績は落ちないものの、少しずつ伸びるものの、私の期待ほどではない。私と比べても頭がいいと思うのに、なぜか伸びない。私はそれで悩んでいた。
もしかしたら、教えようとするからではないか?そんな気がしていたころ、教育実習に行った。そして授業をしているその最中、熱力学方程式を解くことができなかった。生徒たちの目の前で!以前の私だったら恥じ入り、なんとかごまかそうとしていたと思う。でもその時、「仮説」を試してみる気になった。
「なあ、どこが間違っていると思う?」クラス中がざわめき始めた。「いや、現役の京大生ちゃうん?」という声も聞こえた気がする。隣同士でヒソヒソ話している子がいたので、「なあ、そこでしゃべってんと、どこが間違っているか、教えてえな」というと、「あそこで計算間違いが」と答えてくれた。
「え?ここ?」というと、別の子が「ちゃうちゃう、あそこあそこ」と突っ込んでくれた。そのうち、クラスのいろんな子が「そこ、そうじゃなくて」と教えてくれるように。私はそれに従う形で計算を進め、かなりの時間をかけて、ようやく正解にたどり着いた。
「できた!ありがとう!みんな、拍手!」というと、万雷の拍手が!隣の教室でビックリした先生が、覗きに来るほど。
後に私を担当してくれた教諭の方から聞いたところ、そのクラスは異様に熱力学方程式が解けたという。
教師が「できる」様子を見せるより、「できない」様子を見せたほうが子どもたちには学びになるのか!考えてみると、将棋や碁で「岡目八目」という言葉がある。自分が対戦している立場だと先を全然読めないのに、第三者として眺めていると、結構先の先まで読める、ということがある。
これと同じで、誰かが機械の扱いがわからなくて困っている様子を見ると、不思議なことに「あのレバーをこうしたらうまくいくんじゃないか?」という仮説が湧いて、「ちょっと貸してみ」と言いたくなることがある。人が苦労しているのを見ると、自分なら解決できるかも、と考えるクセが人間にはある。
私が同じ機械を、実に見事に操った場合は、そうはいかないだろう。右から左へ話を聞き流してしまうだろう。どう操作したらいいかわからないで困っている様子を見たら、自分がいじりたくなるし、仕組みがかなり理解できてしまうのとずいぶん違いがある。
教師は、すべてを分かっているより、すべてを教えてしまうより、分かっていない様子、教えることができずに困っている様子を見せるくらいの方がいいらしい。そのほうが子どもたちは突如として能動的になり、頭が回転し出す。立派な教師より、へっぽこ教師の方が人が育ったりする。
大山巌は、若い頃、目から鼻に抜けるような聡明な人物だったけれど、人の上に立つようになってから、ヌーボーとした、少しぼんくらなくらいの様子を見せるようになった。そして大山の元だと、部下はものすごく働きやすかったらしい。日露戦争の指揮をとった児玉源太郎は大山のもとで働きたがった。
ロシアの攻撃が激しく、もう陣が持たないかもしれない、という緊張が指導部にみなぎっていたとき、大山は昼寝からいま起きてきたといった様子で「どこかで戦でも始まりましたか」と間抜けなことを言った。それでその場の空気がフッと和らぎ、思考の柔軟性を取り戻し、危機を脱することができた。
優れた指導者、優れた教師とは、実は、優れた知識や技術をひけらかす人間ではなく、むしろ知識や技術に置いて間抜けな様子を見せることで、部下や子どもたちから「違う!こうだよ、こう!」とツッコミが出てくるように仕向けることができる人なのかもしれない。戦略的抜け作。
漫才で言えば、「ボケ」なのだろう。ところがどうしたわけか、優れたリーダー、優れた教師になろうという人は、知識においても技術においても完璧な人間であろうとする。それって、ツッコミようがない。面白くないから、部下や生徒はついてこなくなるのかもしれない。
私はよく、仕事で次何をすべきか忘れる。そのおかげなのか、スタッフから「篠原さん、次はこれをしないと」と忠告をもらう。「おお、そうでしたそうでした、ありがとう」とお礼を言うことが日常茶飯事。「それをする場合は、こうしたほうが」とアドバイスをもらうこともしばしば。
私が抜け作であればあるほど、ボケていればボケているほど、スタッフの皆さんがしっかりしてくれるので助かる。以前、私はすべてを把握した完璧人間のフリをしようとしていた時は、指示待ち人間が多かったのに、ボケるようになってからみなさんしっかり仕事をしてくれるようになった。
つまり、指導者や教師は、自分が何もかもやろうとしてはいけないのだろう。先回りしてすべてを解決し、それから部下や生徒に譲り渡してやろう、というのが「要らぬ親切大きなお世話」なのだろう。それでは部下や生徒が頑張る余地が残されていない。それではつまらない。
自分が考え、努力し、その結果としてこの問題を解決できたのだ、という達成感を味わう余地を、部下や生徒に残すことが大切。そのためには、指導者や教師は「ボケ役」を務めることが大切なのかもしれない。指導者や教師は漫才のボケを学んだ方がよいのかもしれない。