「驚く」はリトマス試験紙
私は、子育てや部下育成において「驚く」をよく推奨するけど、これは自己の内面を改革することを迫られるから。
うわべだけ驚いても、子どもにはすぐ見抜かれる。子どもは表面上の言葉や態度ではなく、親がどう感じているかを感じとろうとしているから。だから小手先の改革では驚けない。
子どもにああしてほしい、こうしてほしいという「期待」があると、驚けなくなってしまう。期待を裏切られたら恨みに思い、子どもをなじらずにいられなくなる。期待通りに動いてくれても「さすが私の子ども!私の指導の賜物だ」と自分の手柄にしてしまう。結局、どちらに転んても驚かない。
驚くためには、子どもに期待することをしないようにする必要がある。しかし「期待しない」というと、「見捨てる」の意味にとってしまうことが少なくない。「どうせあなたは思い通りになんか動きゃしない、そんな人間のことで心わずらわされてたまるもんですか」と無視する方向に行ってしまいがち。
しかしこれでも驚けなくなってしまう。正確には、喜びにあふれた驚き方ができなくなってしまう。たとえば、期待しなかったのに勉強し始めたとか、宿題を自らし始めたとしても「あら珍しい」とか、「雪でも降るんじゃないか」とか、皮肉をぶつけてしまう。子どもはすっかり嫌気を差してしまう。
喜びに満ち溢れた「驚く」で理想的なのは、赤ちゃんに対する母親の向き合い方。多くの母親は、赤ちゃんが立てるようになるのだろうか、言葉を話せるようになるのだろうか、と不安でいる。とてもじゃないけど当然視する気になれない。寝返りも打てず、泣くしか知らない赤ん坊時代を知っているから。
多くの母親は、祈るような気持ちで子どもの成長を見守る。言葉を話すことも、立つようになることも、祈りはするけれども当然視する気にもなれないまま、ひたすら祈り、見守る。やがて、赤ちゃんはどうやらこちらの声かけに反応し、言葉をある程度理解してる様子を知って、驚くことになる。
寝返りも打てなかった子が、いつの間にやら寝返りを打てるようになって驚く。首が座るようになって驚く。ハイハイするようになって驚く。いないいないばあ、でケタケタ笑うようになったことに驚く。毎日、「できない」を「できる」に変えていくことに驚かされる。
やがて子どもが立ったとき、言葉を発したとき、親は驚嘆する。「立った!立った!」「ねえ!今の言葉だったよね?言葉発したよね?」祈る思いで待ち続けたら、ついにその瞬間が来た。期待はしていたかもしれない。しかしその期待が実現するとは確信が持てないでいて、祈る思いで待っていたら。
私は、このときの親(特に多くの母親)の心理が、理想的だと考えている。期待していないわけじゃないけどとても実現するとは確信できない、でも叶うことなら実現してほしい、しかしそれは親である自分は無力で、子ども自身が成長することでしか実現しないことを思い知るときの思い。つまり、「祈り」。
子どもの成長を当然視せず、それは親がどうしようもないことであることを強く自覚し、どうか子どもが自らの力で成長しますように、と「祈る」心理のとき、親は驚かされずにはいられなくなる。子どもの成長一つ一つに驚かされずにいられなくなる。
考えてみれば、粘土細工のように子どもを自在に操り、成形できると考えることは、思い上がりも甚だしい。多くの子どもは他者(親を含む)から何か言われると、それだけはしたくなくなる生き物。アマノジャクな生き物。とてもじゃないけど粘土のようにはいかない。
しかし、少なからずの親が、子どもを粘土細工のように成形できるかのように考えてしまう。勉強させよう、成績を伸ばそう、としてしまう。親である時分が頑張りさえすれば子どもはそれに応えてくれると当然視し始める。そしてそれはある程度成功したりする。しかし、それは子どもを操り人形にする行為。
親の思い通りに育てようとして、思春期を上手く乗り越えることは難しい。思春期になると、親の思い通りに生きる自分を許せなくなる。自分の思い通りに生きたくなる。しかし「自分の思い通り」に生きたことがないので、どうすれば自分の思い通りに生きられるのか、わからなくなる。思いがとぐろを巻く。
不登校や非行に走った子どもの面倒をみていると、親が子どもを思い通りに成形しようとした事例によくぶち当たる。親が反省し、「あなたの好きなように生きなさい」と言ったとしても、子どもはあまりにも自分の思い通りに生きたことがないのでどうしたらよいかわからず、反発する以外のことができない。
そうした事例を見てきて、結局、親の思い通りに子どもを育てられるなんて考えは思い上がりも甚だしい、と思うようになった。子どもは決して親の思い通りになんか育たない。その事実をまず私たちはよく認識する必要があるように思う。
しかし、「思い通りにならないなら、もうお前のことなんか知らん」と見捨てる、心理的に切り捨てるのは、違うと思う。これも結局、子どもに期待する心理の裏返しの反応でしかない。「私の思い通りにならない奴なんか見捨ててやる」という報復行為でしかない。
私は、親は、「祈る」心理に自分の心を持っていく工夫が必要なように思う。子どもがどんなふうに成長するかは、親は無力。ただただ、子どもの成長を祈り、見守るしかない。昨日できなかったことを今日できた、に変えることができる力を、どうか子どもに授けてほしい、と祈ることしかできない心理。
すると、不思議なことが起こる。子どもが「できない」を「できる」に変えたことを、奇跡のように感じられる、みずみずしい感覚になる。だから素直に驚かされることになる。すると、子どもは満面の笑顔になる。そして、また自分の成長で親を驚かそうと企むようになる。意欲的になる。
そう。子どもがどう成長するかはコントロールできないが、親が「祈る」気持ちでいると、親は子どもの成長に驚かされずにはいられなくなり、その驚く様子を見て、子どもは意欲的になる。挑戦をやめなくなる。次々に新しい境地を開拓しようとする。
親ができる役回りとは、ひたすら祈り、何か成長なり変化なりに気がつき、驚かされること。すると、子どもは意欲的になり、様々な挑戦をするようになり、能力開発をやめなくなる。親ができることは、それだけなのだと思う。
私が理想の親像として、「赤毛のアン」のマシューを挙げるのはそのため。マシューは不器用極まりない男で、なんの取り柄もないような描かれ方をしている。しかし、アンが大好きで仕方のない人物として描かれる。それは、マシューがひたすらアンの幸せを祈り、その成長にひたすら驚く人であったから。
アンがみなしごという悲惨な状況でありながら、素直に育ったのは、(架空の小説であるとはいえ)マシューの存在が大きいように思う。マシューはアンの話すことにニコニコと耳を傾け、ときおり「おお」と驚きの声を上げ、アンの成長を心から喜ぶ。アンにとってはたまらない存在だろう。
私は、親はみんなのマシューになればよいのに、と思う。あるいは、まだ言葉も話せず、立つこともできなかった頃の母親の心理に戻ればよいのに、と思う。子どもの成長を祈り、しかし当然視せず、親の力の無力さを思い知り、もし変化が見えたら驚き、喜ぶ。それをいつまでも行えばよいように思う。
「信じる」という言葉は、「期待する」と「ゆだねる」の2つの意味があるらしい。「期待する」意味の「信じる」は、「信じていたのに裏切られた」と怒り、恨みに思うときの心理。この場合、自分の期待通りに動かない相手を許せなくなる。信じるとは、自分の思い通りに動くことを当然視する意味。
「ゆだねる」意味の「信じる」は、うまくいかなくても、失敗が続いても、ひたすら任せるしかない、自分は助けてやれないのだ、なんとか克服してほしいと祈るしかできないのだ、という心構え。この場合、もし少しでも前に進むと「やったあ!」と一緒に大喜びしたくなる。
私達は、この「ゆだねる」意味での「信じる」を選んだ方がよいように思う。どんな結果になろうと、お前にゆだねるよ、その結果を甘んじて引き受けるよ、お前は気にすることないんだよ、思う存分やりなさい、休みたければ休みなさい、私は祈ることしかできないのだから、という心構え。
もしそんな人が、マシューみたいな人が一人いたとしたら、私達は弱気になっても再び勇気を取り戻し、元気に前へと進めるようになるのではないか。親は、祈り、ゆだねる存在になることで、子どもにとって、何よりの応援団になれる気がする。
「驚く」あるいは「驚かされる」心理は、そうした心構えになれたときに初めて達することができる。果たして自分が祈り、ゆだねる人間になれているかどうかのリトマス試験紙が、「驚かされる」ことができるかどうか、なのだと思う。
もし「驚く」ことができないのだとしたら、その人は子どもの成長をどこかで当然視し、期待し、期待に反した結果を子どもが出すと恨みに思う、という、子どもの成長を阻害するのに効果的な態度になっている可能性が高い。「驚く」は、自分がどんな状態でいるかを測るリトマス試験紙だと思う。