命の賢さ
学歴(学校歴?)で頭の良し悪しを云々する人が少なくないけど、私にはどうもピンとこない。最近Fラン大学とか言い方があるそうで、なるほど、そうしたところの学生は、音読み単語が出てくるとポカンとしてしまう学生が多いかもしれない。しかし「賢さ」とは関係がない。
https://note.com/shinshinohara/n/n21a0f1ba0240
阪神大震災の時、夜中に救援物資を運ぶと、クスクス笑いながら3人娘がどこからともなく現れた。そしてニコニコ笑いながら「コーヒーいかがですか?」まるでお酒をお酌するかのようなマネして、それでまたクスクス笑っている。「起きてこなくていいから。寝てなよ」と言っても、必ず起きてきた。
中学2年、3年、高1の3人娘。どんな夜中に救援物資を運んでも、誰も起こさないように静かに運び入れていても、どこで感づくのか、3人クスクス笑いながら現れ、その笑顔をボランティアたちに振り向けた。私の父は「あの子たちは賢い。命が賢い」といつもうなっていた。
実はその避難所、ボランティアに対する態度のひどい被災者が一部いて、しかもそうしたのに限って前面に出てボランティアたちに悪態をつくので、「二度とこんなところに来るか!」と怒って立ち去った人が少なくなかった。その状況を変えたのが、その3人の娘だった。
「私たち、難しいことわからへん」って言い、クスクス笑いながら、ボランティアたちに「おじさん、ありがとう」「お兄さん、ありがとう」「お姉さん、来てくれてありがとう」と言って回っていた。
あのオッサンは許せないが、この子たちは何とかしたい。ボランティアたちが踏みとどまるようになった。
その子たちは、当時不良のあかしとされていた髪の毛の脱色をしていて、被災者から不良娘扱いされていた。ボランティアにも被災者にも暴言吐いてばかりの人物からもムチャクチャ言われていたようだ。しかしその人物さえ、この娘たちが救っていた。この3人娘がいなかったら、その避難所はグチャグチャ。
ひたすら3人娘は、ニコニコ笑い、いつも楽しそうにくすくす笑って、そしてボランティアに「ありがとう」、立ち去るときには「また来てね」というだけ。だけどそれを言う被災者が、他にいなかった。1000人以上の被災者がいて。ボランティアを何とかつなぎとめていたのが、3人娘だった。
自分たちが繋ぎ止めなければ、この避難所は大変なことになる、ということを直感的に見抜いていたのだろう。そして、避難所に来るのが嫌にならないように、笑顔で出迎え、「ありがとう」と言い、「また来てね」と笑顔で送り出すことを、何の表裏もなく実行していたのだろう。
この子ら(と言っても、もう40前後の年齢になっているが)とは、今でも交流があり、時々会うのだが、「お兄さんの本、読もう思ったけど言葉が難しくて読めない」と言って笑う。まさに、音読み単語が苦手で、いわゆるお勉強はできないほう。でも、本当に賢い。私なんか及びもつかない。
あの時、千人以上被災者がいたあの避難所が大混乱せずに、死者や犠牲者を出さずに済んだのは、3人娘の笑顔だった。彼女らが多くのボランティアをつなぎとめ、支援や救援物資が運ばれるようにしていたのだ。「命が賢い」としか言いようがない。
あいにく、文字の勉強ができる人間で、こうした賢さを発揮できる人間は、あまり見かけない。その点で、勉強は人を愚かにするのかもしれない、とさえ思う。今、自分がなすべきことを察知し、その通りに行動する。非言語的な行動で、実現してしまう。これが本当の賢さだろう。
何々理論とか何々術とか、音読み単語なんか操れても、「命が賢い」状態にはなれない。ただの屁理屈。あの3人娘の賢さを、私も少しは発揮できるようになりたい。
そう考えると、学歴(学校歴)と命の賢さは、ほぼ無縁。関係ない。命が賢い人というのは確かにいる。そしてそれは、学歴と本当に関係ない。むしろ、学歴を賢さの一つだと捉えている人は、命が愚かになってしまう傾向があるように思う。多分、知識が邪魔するんだろう。
先日、勉強はそこそこできるけれど運動が苦手な人は、意識が支配権を握ってしまっていて、無意識にゆだねることができていない、ということを指摘した。たぶん、これと同じことが起きている。「命の賢さ」を発揮するには、意識は邪魔になる。
https://note.com/shinshinohara/n/n8284359383cf
私は、命の賢さをできれば少しでも身に着けたいと考えている。命の賢さを思えば、音読み単語をいくつ知っているかとか、学歴や学校歴がどうのとか、実につまんない。なんでそんなところに興味を持つのかがよく分からない。あの3人娘は、私の師匠。見習いたい。
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