無意識に委ねること

学校の勉強はまあまあ得意(あるいはものすごく得意)だが、スポーツが苦手、人付き合いも苦手、というタイプの人が結構いる。マジメで不器用なタイプ。こうした人はなぜ不器用なのだろう?ずっと観察してきた結果、「意識ですべてを制御しようとし過ぎ」ではないかということに気がついた。

こうした不器用タイプの人たちを見事に指導する人がいる。「新インナーゲーム」の著者。テニスの壁打ちがとても下手な生徒がいた。ボールを打つと、強すぎて打ち返せなかったり、今度は弱すぎて跳ね返ってこなくなり。
著者は次のように声をかけた。
「ポン、ポン、ボーン」

壁に当たって「ポン」、地面でバウンドして「ポン」、ラケットで打ち返して「ボーン」。生徒も一緒になって「ポン、ポン、ボーン」と言いながら打ってると、なぜか壁打ちがスムーズにできるようになった。程よい力で球を打ち、程よいコースで壁に打てるように。魔法の「ポン、ポン、ボーン」。

もう一人の生徒は、バックハンドが上手になった。そのことをほめたら、ホームラン続出。コートに打ち返せなくなった。「違うよ、さっきはこんな風に打ってたよ」とフォームを指導し直したが、今度はネットにばかり引っかかる。動きもぎこちなくなり、生徒呆然。そこで著者は作戦を変えた。

「ボールの縫い目を見つめて。スローモーションで見るように」と声をかけた。すると間もなく、バックハンドが再び上手に打てるように。程よい力、コースに打ち、相手コートにボールが吸い込まれるようになった。

「新インナーゲーム」の著者は、「自分」をセルフ1、セルフ2に分けて捉えている。これはそのまま意識、無意識に置き換えられるように思う。上手に壁打ちしたい、バックハンドで打ち返したいと意識すると、不器用な人は身体の操縦権を意識が奪ってしまう。

ところが意識は身体の操縦がどヘタクソ。何しろ、意識は一度に一つのことしか意識できない。だから、「ラケットはこう動かさなきゃ」と思うと、姿勢や足の動きはおろそかになり、ぎこちなくなる。すると当然ながら、壁打ちもバックハンドもうまくいかなくなる。さらに意識には厄介な性質が。

あら探しが上手で、罵るのが巧いこと。「ああ!そうじゃないって言ったろう!ヘタクソ!こうだよこう!」と、欠点を見いだしては罵る言葉が心の中でこだまする。その罵りにますます戸惑い、萎縮し、意識がさらに身体の操縦権を強め、ますます動きがぎこちなくなる。罵りがさらにキツく。悪循環。

「新インナーゲーム」の著者は、生徒の「意識」から身体の操縦権を奪うことに成功している。「ポン、ポン、ボーン」とリズムよく口にさせることで、意識はそれを口にすることだけに集中する。すると身体の操縦権は無意識に移る。無意識は非常に身体の操縦が上手。自然に力加減などを調整。

ボールの縫い目を見ることに集中させることで、意識はボールの縫い目を見ることだけに必死になり、身体の操縦権が手放され、無意識に移る。その結果、無意識は身体の複雑な動きを見事に調整し、バックハンドもスムーズに打てるようになる。

不器用な人は、意識が強すぎ、しばしば身体の操縦権を牛耳ってしまう。そのために、一つのことしか同時に処理できない意識は、身体を操縦しきれずに動きをぎこちなくなるしてしまう。そのぎこちなさに意識はすぐ気づき、「ヘタクソ!」と罵る。悪循環が始まり、ますます動きがぎこちなくなる。

しかし不器用な人も、無意識に任せていることはスムーズにできる。シャツに袖を通したり、ボタンを留めたりするのは、ロボットでも難しい、複雑な動き。これを何の問題もなくスムーズにできるのは、無意識に身体の操縦を任せているから。不器用なのは、決まって意識が操縦するから。

これは人付き合いでも同様。あの人とどんな風に話せばよいだろう?と意識すると、意識は言動の操縦権を奪う。しかし意識は操縦がヘタクソなため、言動がぎこちなくなる。あれを言わなければ、と意識しすぎて、座の空気が変化したことに柔軟に対応できない。

無意識に言動の操縦権を任せた方が、人付き合いもスムーズになる。座の空気の変化に敏感になり、「今、これを言うと違和感あるな」ということにも気がつき、場違いな発言はしなくなる。
人付き合いが苦手な人は、無意識に操縦権を委ねられず、意識が操縦しようとする人、と定義できるかも。

意識が身体や言動の操縦権を奪いがちなクセを解除し、無意識に操縦権を委ねるコツ。それは、「視線」を送る対象を意識に与えること。壁打ちのケースでは「ポン、ポン、ボーン」」という声かけに「視線」を送ることに集中させ、意識はそれに専従。無意識に身体の操縦権が移るようにした。

バックハンドの例では、ボールの縫い目に「視線」を集中させることで意識が身体の操縦権を手放すようにさせた。意識に何か無難な対象を与え、それに視線を送るよう集中させることで無意識に操縦権を譲り渡すようにさせている。意識は視線につられやすい。その性質をうまく利用するとよい。

視線をずらすこと。自分の身体や言動に視線を送るのではなく、身体や言動の操縦に支障の起きないものに視線を送るようにすると、自然と操縦権は無意識に移り、試行錯誤を自然に重ねて調整し始め、驚くほど早期に柔軟な対応が可能になる。無意識は複雑な動きを調整できる並列回路のコンピューター。

不器用さを自覚している人は、もっと無意識を信頼し、操縦権を委ねてみるとよい。意識は論理性が高く、観察力に優れるので、その長所は生かせばよいが、ともかく身体・言動の操縦がヘタクソ。意識は観察、無意識は操縦、という得意分野に特化させるようにした方がよい。

四冊目の拙著は、不器用だった私自身の苦しみと、不器用さから少しでも脱却するためのコツをまとめたのだけど、タイトルが「思考の枠を超える」のせいか、器用者がさらに器用になるための本だと誤解されてるようで残念。不器用さに苦しんでいる人は、手にとって読んでほしい。
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