「群れ遊びの熱狂」欠乏症
不登校が増えている。
https://www.sentankyo.jp/articles/2ee12fc6-a856-4cb5-a230-026803c5bcc2
知人から「画一的な教育を学校が続けているからではないか」と問いかけられた。
不登校問題は、学校に問題があるからではないか、あるいは親が甘やかすからでは、と、犯人探しが行われがち。けれど。
私は「群れ遊びの熱狂」の欠如が大きな原因ではないかと感じている。
私が小学生の頃は、もっと画一的な教育が行われていた。それでも不登校というのは滅多にいなかった。変化を感じたのは、私より3歳ほど若い世代から(現在50歳前後)。
大学で不登校になるケースがボチボチ増えてきた。私の同級生でも麻雀に入り浸りで不登校なのはいたが、そういう何かしら理由のあるのとは異質で、特段の理由もなく、引き込もって誰とも会おうとしなくなる。
先生が厳しいとかでも、友達とうまくいかないとかでもなく、しかも本人も理由がよく分からないで、大学に通えなくなった、という事例がポツポツと現れ始めた。当時の大学教員は、一体何が起きたのかと慌てていた。
親も突然のことに慌てていた。それまで特段の問題もなく、むしろ優等生でずっときて、なぜ不登校になったのか、部屋に引きこもってしまったのか、戸惑っていた。親御さんからも相談受けたが、ごく普通の親御さん。親にも問題があるわけではなかった。大学の先生とも、先輩同級生とも関係は悪くない。なのに突然、行けなくなってしまう。
そうこうしてるうちに、小学生から大学生に至るまで、特段の理由もなく不登校になるケースが、私のもとに相談されるケースが増えてきた。90年代前半では見たことがなかったケースが増えてきた。学校にも親にも特段の問題が見当たらず、きっかけらしいものもなく。そうした不登校が目立つように。
「これがもしかしたら原因かも?」と思い当たる出来事があった。二十年前になるが、私の通っていた少年剣道の道場のみんなでバーベキューをした。食べ終わる頃、子どもたちにポールを渡して「これでキックベースボールでもしてみんなで遊びな」と言うと、子どもたちはキョトンとしている。
ルールを知らないからかな?近頃はサッカーの方が人気だからな?と思って、ルールが飲み込めるまで大人も参加してキックベースボールを始めた。子どもたちがルールを飲み込めたかな、というタイミングで大人が抜けると、あっという間に空中分解し、二、三人ずつに分かれて時間を潰し始めた。
私達大人は衝撃を受けた。「この子達は群れ遊びしたことがないのか!」どうやらこの子達は、個別に楽しめるゲームに慣れ親しんで、みんなで熱狂し、夢中になる群れ遊びの経験がゼロであるらしかった。学校の授業や部活ならみんなで取り組むこともあるが、それは先生が仕切る仕方なしの参加。群れ遊びの熱狂はまずない。
私が子どもの頃は、親から「公園にでも行ってきなさい」と言われ、公園に行くと誰かしら友達がいて、少し年長の子が音頭をとって、3歳児から小6まで楽しめるキックベースボールをしたりした。3歳の場合は足元にボールを置いて蹴る、一塁に投げるのは5秒数えてから。これに対し6年生には。
全速力でボールを投げ、容赦なく一塁に送球!こうして、それぞれの体力に合わせたルールにして、誰もがスリリングに楽しめるように工夫していた。どの子も熱狂し、絶叫しながら楽しんでいた。みんなといることは強烈に楽しい!そんな記憶を私達の世代は持っている。しかし。
私より少し若い世代から、考え方が変わり出した。大卒になるには小学校から私立に通った方が有利、そのためには早期教育を施して、「悪い子」から変な影響受けないように付き合う子どもも選ばせる、などの親の介入が強まり出していた。少なくとも、そういう気配が世の中を覆い始めていた。
私は90年から2000年まで塾を主宰してたけど、この間に2つの大きな変化があった。
①ゆとり教育によるゆとりの喪失。
②子どもへの犯罪。
ゆとり教育が本格化し始めたとき、塾業界から次のような脅しが行われるようになった。「円周率を3としか教えない!これでは厳しい受験戦争を生き残れない!」
私は「何をアホなことぬかしとる」と思っていた。中学校で円周率を約3と教えるなら、公立でも私立でも、受験問題は約3で出す(出さなきゃダメ)。だから別に3.14で覚えておく必要はない。なのに、塾業界はあたかも3.14での計算を知らないと受験を乗り切れないかのように脅した。
「ゆとり教育でろくに教えようとしない学校の教育だけでは厳しい受験戦争を乗り切れない!したがって我々塾に通いなさい!」という宣伝が盛んに行なわれ、親も不安になり、通塾率が非常に高まった。私の世代までは、塾に通うのはどちらかというと勉強できない子が仕方なく通っていたが。
ゆとり教育からは、学校をアテにせずに塾で教えてもらう、という考え方の親が増えた。
これにより、公園から子どもたちの姿が消えた。みんな塾に通ってしまって、公園に行っても友達がいない。友達と遊ぶためには自分も塾に通って、約束(アポ)を取り付けないといけなくなった。
そして、もう一つの激震が、子どもへの犯罪の連続。それまでの犯罪は、「弱者にだけは手を出してはいけない」という不文律というか、誇りのようなものがまだしも感じられた。しかし90年代後半から連続して起きた犯罪は、明らかに弱者である子どもたちを狙って行われるものが立て続けに起きた。
公園で遊んでいた子どもに突然包丁を突き立て、殺した事件もあった。その事件から数年、公園からは子どもたちの姿をみなくなった。
以上のように、ゆとり教育で「受験戦争で負けるかも」と恐怖した親が子どもたちを塾漬けにし、友達と遊ぶゆとりを失わせ、同時に、公園で遊ぶこと自体を恐怖する時期が続いた。
子どもたちが、群れ遊びで熱狂する習慣を失ってしまって、かなりの年数になる。その間、ゲームはますます進化し、個別に楽しめるようになった。もちろんゲーム業界も「個」(孤独)になりすぎることを懸念し、みんなで遊べるゲームを開発したりした。しかしせいぜい仲の良い数人レベルに留まる。
私の職場の人が虫の研究者で、ムシムシ会と呼んでる、虫や植物のことを学ぶイベントが毎月ある。そこにうちの子らも参加。すると、10人近くも子どもたちがいるのにみんなよそよそしく、親のそばを離れなかったり、せいぜい顔見知りの二、三人で時間を潰したり。群れ遊びは発生しなかった。
ところが3回目の参加あたりで、群れ遊びが自然発生した。「今度はあっち行こう!」と誰かが呼びかけると、全員がワー!キャー!と叫びながら走り出した。走る必要ないのに走らずにいられない、叫ばなくてもいいのに叫ばずにいられない、といった感じで。もう、全員熱狂の渦。
群れ遊びがごっつ楽しい!という発見をすると、子どもたちはもうコツをつかんだのか、初めて参加してオズオズしてる子もすぐに巻き込んで、ワー!キャー!やりだすように。もう楽しくてならない、といった様子。面白いことに、そうした群れ遊びだと体力の限界を超えて遊び続ける。
遊び回り、叫び回り、もうとっくにヘトヘトのはずなのに、少し茶を飲んで息をついだら、また熱狂の渦に突入していく。そしてどの子も、「もっと遊びたい」と言って、日暮れになってもやめようとしなかった。群れ遊びの強烈な楽しみを知ると、子どもたちはもう離れがたくなるらしい。
私は、こうした「群れ遊びの熱狂」の有無が、不登校になることの一因になっているのではないか、という気がしている。
群れ遊びしたくてもとてもそんな雰囲気ではない集団、あるいは群れ遊びの熱狂をそもそも体験したことがない子どもは、人と群れることを楽しみにしにくいのかもしれない。
元教員だったFB友の方から、貴重な体験談が寄せられた。大変示唆的なので、許可を得た上でご紹介したいと思う。
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昔物語
ずっと昔のことでした。2年生の子どもの話です。学校に来ないA君を迎えにいくのが担任の休み時間の日課になっていた。
担任は、パンと牛乳を持って、家に着くと、「A!!先生だ!!起きてこい!!」と外から怒鳴るのだ。しばらくするとA君は、パンツだけで眠そうに出てくる。
土間には、ビール瓶が何本も並んでいて、液体が入っている。これは何かと聞くと、小便と言う。夜は怖いので便所に行けないのでここでするとのこと。A君のお母さんは、夜の仕事で帰ってこない。お父さんはどこかに行ってしまった。子どもたちで夜を過ごしているようだった。
ガスは止められているので、電気釜にあるご飯に水道水をかけて食べていた。
しばらく風呂に入ってないようで、汚れたかっこうで学校に来る。そういう子は、友達は少ない。遠足の時に、誰と食べてもいいよと言ったら、彼は一人で食べていた。
迎えに行くことが出来ない日があった。A君は学校に来ない。子どもたちに「Aくんはどうして学校に来ないと思う」と問いかけてみた。Bさんが、「みんなが優しくしないからだと思う。」「A君は、ドッジボールが好きだから今日の放課後、ドッジボールで遊ぶ」と言った。
あいにく放課後は土砂降りになってしまった。せかっくの計画が台無しになってしまったと思った。
次の朝、A君が来ている。「雨が降ったので、家の中でドッジボールをした」と楽しげに話してくれるBさんとA君。
それからである。毎日放課後は、近くの公園でドッジボールとなった。毎日毎日である。呼びかけるのは、Bさんである。塾行かない子はほぼ全部集まっているようであった。
春の球技大会が始まった。各クラスを4グループに分けて、学年でトーナメントを組んで戦うのである。見ている子どもたちは、クラスの他のグループを応援するので盛り上がる。ところが途中で、打ち切りとなった。4つのトーナメントで勝ち上がってきたのは、全部、Aくんのクラスなのである。
「後は、クラスで決めてくれ」ということで、終わってしまった。
A君を迎えにいかなくなってしばらくたった。朝から雨が降っていた。傘のないA君は、濡れながら学校に来ていた。起こす人はいない、朝ご飯は食べていない、それでも学校に来た。その後、クラスが変わるまで、A君が休む日は一日もなかった。
A君は、もう50歳ぐらいになるはずだ。元気にやっているのだろうか?
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以上。
このエピソードは、大変示唆的だと思う。
1)先生が生徒に問いかけ
2)生徒が問いかけに反応、自ら解決策を提案
3)自らの提案を子どもが能動的に実行
4)群れ遊びの熱狂が発生
5)登校する動機発生
もし先生が問いかけなかったら、この群れ遊びが発生したかは疑わしい。やはり先生の問いかけが重要なきっかけになったと思う。しかしこれが「問いかけ」ではなく先生からの「あの子と遊んでやってくれ」という提案、依頼、あるいは命令だったら、ここまでうまく群れ遊びは発生しなかったかもしれない。大人のお膳立てした群れ遊びには、子どもが熱狂することは起きづらい。
先生はあくまで「問いかけ」にとどめた。子どもがどう考えるかは子どもたちに委ねた。そして子どもの一人が解決策を思いつき、それを自ら提案した。人間は不思議なもので、自分が思いついたアイデアだと思うとそれを実現したくてウズウズする。先生からの提案は、先生の手柄になるからつまらないけど。
そしてその子は実際に一緒に遊び、さらに「群れ遊び」にまで発展させて、A君を「群れ遊びの熱狂」の渦に巻き込んだ。「みんなと一緒にいるのは猛烈に楽しい!」この体験があったからこそ、傘もなく、濡れたとしても学校を休まなかった強い動機になったのだろう。
不登校が増えている原因、それはもしかしたら「群れ遊びの熱狂」欠乏症ではないかと私は仮説を立てている。みんなと群れで遊ぶことが強烈に楽しい!という体験をしている子は、みんなと一緒にいたいという強い動機を持つようになると思う。またあの熱狂を味わいたくて。
でも、その熱狂を体験したことがない子は、そもそもその動機が生まれない。みんなと一緒にいたいという動機が発生しない。この動機が今の子供達に欠如していることが、不登校の起きやすい大きな原因になっているのではないか。私はそう感じている。
教育の最大の目的は、親がいなくなった赤の他人だらけの世界でも、生きていける力を備えることではないか、と、私は考えている。学校は、その赤の他人だらけの「第三者の海」の代表的な空間でもある。
その「第三者の海」に漕ぎ出る勇気を持つには、群れ遊びの熱狂を味わうにしくはない、と私は考える。みんなと一緒にいることが強烈に楽しい!という体験があれば、その子は人と一緒にいることを楽しむようになるだろう。一緒にいることが楽しいからこそ、一緒に学ぶことも楽しくなるのだと思う。
学校で学ぶ「べき」だから、他者とはうまくつきあわ「ねば」ならないから、という「べき・ねば」は子どもの動機になりえない。それはちっとも楽しくないから。それよりも、みんなと一緒にいたい!すごく楽しい!という強烈な体験をした方が、よほど動機付けになるように思う。
今の子供たちは地域にもよるようだが、群れ遊びの経験が乏しい傾向がある。油断すると群れ遊びの経験がゼロになってしまいかねない環境に子どもたちは置かれている。私は不登校を解決するかどうかは別として、子ども達に群れ遊びのあの強烈な楽しさというのを味わってもらいたいと考えている。
群れ遊びをすれば、熱狂するあまり、ケンカになることもある。しかし、ケンカしてもなお、群れ遊びがあまりにも強烈に楽しいので、再び群れ遊びが再開する。その繰り返しの中で、人間は「仲よくケンカしな」という一見矛盾めいた表現も可能になるような人間関係を構築できるように思う。
人間は群れることで文明を発展させ、社会を維持している生き物、ならば、「群れ遊びの熱狂」という強烈な動機を持たずして、どうして群れを維持できるだろうか。「群れ遊びの熱狂」という重要な学びの機会を、子どもたちに提供できたらな、と強く願う。