「正しく見る」ことのできない私たちにできること・・・観察
(正しく見る、なんて仏教でも言うけど、そんなのできないよ、という意見に対し)
そうなんですよね。俯瞰して物事を見る、って、言った場合、自分は俯瞰してみることができている、という前提になっていて。でも、人間はどうしても自分というバイアスを通してしか物事を見ることができない。その限界を知ったうえで、「観察」とは何か、ですね。
私の好きなエピソードに、老荘思想の大家、福永光司さんの少年時代の話があります。母親から「あの木をまっすぐに見るには?」と問いかけられた福永少年。しかし、その木はどこからどう見ても曲がりくねっていてまっすぐには見えません。さんざん悩んだ挙句、福永少年は降参しました。すると母親は。
「そのまま眺めればいい」。
私はこのエピソードを、次のように解釈しています。私たちは「まっすぐ」という言葉を聞いた途端、心の中に「まっすぐとは」という物差し、価値規準を心に抱いてしまいます。すると、目にするものはすべてまっすぐか曲がっているか、どちらかにしか見えなくなります。
しかし、いったんそうした物差しとか価値規準とかを脇に置き、虚心坦懐に、五感から飛び込んでくる感覚に耳を澄ませ、観察すれば。あ、木漏れ日が気持ちいいな。いい香りがする。樹液を吸いに虫たちが集まっている。風で葉擦れの音がする。木に関する様々な情報が膨大に飛び込んできます。
「まっすぐ見る」という問いかけ、「そのまま眺めればいい」という答えは、物差しや価値規準という「解釈」を挟まずに、虚心坦懐に「素直に眺める」という意味なのだと思います。
それでも、人間はバイアスがかかってしまう。では、「観察」とはどういう行為なのか。
ナイチンゲールは、観察に関して次のように述べています。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
ただ漫然と「見る」のと、「観察」は違う、と考えていることがわかります。
私が思うに、観察とは、自分がこれまでに気づかなかったこと、知らなかったことを探すことなのだと思います。赤ちゃんはその点、観察の天才。知育オモチャを与えても、それの本来の遊び方なんか頓着せずにかんだり叩いたり投げたり。ありとあらゆる働きかけをして、その反応を観察します。
観察とは、今までにないかかわり方、働きかけも行って、自分の知らなかったこと、気づかなかったことを探す行為なのだと思います。
これに対して私たちの普段の「見る」は、知っていること探し、すでに気づいていること探しが非常に多いです。それで安心するために。
観察とは、自分に都合がよいとか悪いとかまずうっちゃって、自分のこれまで気づかなかったこと、知らなかったことを探しまくる行為なのだと思います。私たちはバイアスから逃れられませんが、自分の知らなかったこと、気づかなかったことを探すことならできます。
私たちにできるのは、こうした「知らないこと・気づかないこと探しとしての観察」なのだと思います。その有効性と限界を知ったうえで、この観察を行うこと。これが大切なのだと思います。