「見守る」考
「見守る」考。
教育の世界では「見守る」って言葉がよく使われる。相手の自主性を大切にしつつ、目は離さない、という、適度な距離感を保った姿勢を示す言葉として、とても良いイメージ。でもこの言葉、解像度がまだまだ粗いような気がする。上手く見守れない人も多いからだ。
とある化学薬品メーカーの出来事。「異常がないか、ちゃんと見とけよ」と新人社員に伝え、その場を離れ、しばらくして戻ってくると、大事故につながりかねない異常な化学反応!慌てて対処した後、「なぜ異常が起きているのに知らせないんだ!」と叱ったところ、「何が異常なのかわからなかった」。
ナイチンゲールは次の言葉を残している。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
ただ「見てるだけ」は、観察にならない。異常を察知できなければ、それは観察したことにならない。
化学薬品メーカーの話は、新人さんばかりに責任を求めることはできない。指導者が、きちんと着眼点を示さなかったところにも問題がある。新人さんはもしかしたら、機械が異常なく作動していることを「異常がない」と判断し、機械の中で起きている化学反応の方は注意が向いていなかったのかも。
人間は、「これだけは注意しよう」と決めてしまうと、注意したところにしか気づかない。そのすぐ脇にある現象が変化したことにも気づかなくなる。だから、指導者が着眼点を示すだけでは問題がある。着眼点以外にも神経を張り巡らす必要がある。新人さんにもやはりやや問題があったと言える。
では、どうしたらよいのか。「ただ見ているだけ」と「観察」との間には、大きな違いがあるように思う。「ただ見ているだけ」は、自分の見たいものしか見ていない。だから、見ているものの変化にしか気づけない。「観察」は、自分の気づいていないこと、知らないことを常に探す行為のように思う。
本来、赤ちゃんはこの「観察」の能力に大変長けている。様々な形の穴に、その穴の形にピッタリのプラスチックを放り込むオモチャがある。大人がその知育オモチャを渡すと、ついつい、穴にオモチャを通すのを教えたくなる。でも赤ちゃんはそんな限定された見方をしない。
星型や四角、三角のプラスチックを、裏返したりしていろんな角度から観察し、かじってみて硬さや味を確かめたり、投げてみてどんな音がするのか試してみたり。ありとあらゆる角度から「観察」する。その様子を見ていると、大人は余計なことばかりしているように思うかもしれない。
しかし赤ちゃんは、そうして自分の知らないこと、気づかないことがそこに隠されていないか、一心に探している。ありとあらゆる角度から。このように、自分の気づいていないこと、知らないこと探しをすることが「観察」なのだと思う。観察は、大人が下手なことをしなければ幼児になっても維持される。
でも、あれはこういうものだよ、とか、それはそういうものだよ、と、一面的なものの見方を大人が教えてしまうことで、子どもは次第に観察しなくなる。一面的なものの見方で処理してしまって、自分の知らない一面を探そうとしなくなる。こうして「ただ見てるだけ」になり、「観察」能力を失っていく。
さて、冒頭の「見守る」だけど、「ただ見てるだけ」になってしまいがち。体のいい放置、ネグレクト(無関心、無視)になっているケースが少なくない。マザー・テレサは、愛の逆の言葉は憎しみではなく、無関心だと言ったという。「見守る」と言いながら、事実上「ただ見てるだけ」の無関心かも。
「見守る」というのは、やはり「ただ見てるだけ」ではうまくいかないように思う。自分の知らない一面、気づいていなかった一面を探そうとすること、つまり「観察」が重要なのだと思う。
息子が2歳の頃、海に行った。物心ついて初めての海。あまりの広大さに息子は立ちすくんでしまった。「なにこれ?」と言った感じで、茫然と。その真っ黒な水面の下がどうなっているかも想像がつかず、どうやら不安が高まったらしい。海に近づこうとしなかった。
そこで、おじいちゃんおばあちゃんが息子に声をかけた。「海に行こうか。楽しいよ」手を引いたり背中を押したりしたが、息子からしたら、どこに連れて行かれるかわからない恐怖を感じたらしく、むしろ海辺から遠ざかってしまった。その様子を見て、「ああ、小さい頃の私とおんなじだな」と思った。
私の場合、息子と同じ立場の時、親に放置された。度胸のない情けない奴、と。まあ、「見守る」ことはされていたと思うけれど、どちらかというとネグレクト的「見守る」。それで余計にふてくされた私は、海を嫌うようになり、なかなか海を楽しもうという気持ちになれなかった。
息子を海に誘う干渉もよくない。かといってネグレクト的「見守る」では、息子は放置された、見放されたと傷つき、余計に海を嫌ってしまうようになるだろう。かつての自分の体験を思い出しながら、息子の様子を「観察」して、そのように想像した。どうすれば、息子から能動性を引き出せる「見守る」ができるだろう?
私は、息子の真横に立ち、一緒に海を眺めることにした。海に行こうとも言わず、手も引かず背中も押さず、ただ黙って一緒に海を眺めることに。そうすることで息子に、「そりゃ事実上初めての海だもの、不安を感じて当然だよ」と私が共感していることが無言のうちに伝われば、と考えた。
すると、息子がほんの少しだけ、前に進んだ。1cmくらいの、実に微妙な。で、私も同じだけ前に進んで真横に。息子はその様子を見て、また私よりも少し前に進んだ。私はそれに遅れる形で、でも真横に。やがて波が息子の足を洗うと、ビックリしてまた数メートル後ろに下がってしまった。
私は内心<そりゃ波が足を洗うと、足元の砂が抜けていく感覚は初めてだろうから、ビックリするだろうさ〉と考え、何も言わずに息子の真横に立った。すると、今度は先程よりも速いスピードで前進し、今度は波が足を洗っても我慢して後退しなかった。やがて、胸の深さにまで進んだ。
その時私は初めて息子の方を向き、「やったぜ!」と声をかけ、ハイタッチした。息子は誇らしげな顔をして、以後、海で楽しそうに遊んだ。
私の中で大切にしている「見守る」の着眼点。それは、相手から能動性が生まれるには?を常に考え、探し求めること。
「海に入ろうよ」と手を引いたり背中を押したり声をかけたりすれば、それは、息子にとって能動的でなくなる。受動的な立場に置かれる。やらされ感が出る。こうしたアプローチは、相手から能動性を奪ってしまうので、私は極力とらないようにしている。
かといって、「怖いんだろ、臆病だからな、ほっとけほっとけ」と、放置気味にすること、ネグレクト的「見守る」だと、子どもは見捨てられた、見放されたという気持ちになり、それではヤケクソ、捨て鉢になってしまう。「どうせ私は臆病者ですよ」とふてくされてしまう。これも能動性とはいいがたい。
私が観察する限り、息子は海に強い関心を持っている。でも黒々とした海面の下がどうなっているのかわからず、不安に感じてもいた。その不安に少しずつ慣れない限り、海で遊べない。では、息子が海に向かうという能動性を発揮するにはどうしたらよいのか。
私は、息子の真横に立つことで、息子が「能動的に勇気を奮った印」になることにした。もし息子が少しでも私より前に進めば、それは「父親よりも前に進んだ、それも能動的に、勇気を振り絞って」という証拠になる。自分が能動的に動いたことを嬉しく思うし、達成感を感じることができる。
私は真横に立つことで、息子が自分の能動感(能動的に動けた、という達成感)を感じやすいようにした。でも、息子が前に進もうと後ろに下がろうと、そこは息子に任せている。余計な手出しはしない。でも、子どもが能動感を感じ取りやすいようなアシストだけして、あとは任せ、祈り、待つだけ。
すると、子どもは必ず何らかの能動的な行動に移る。それが後ろに下がることであろうと、前に進むことであろうと、それは子どもが能動的に選択したこと。それが浮き彫りになりやすいようにだけアシストし、私は、その能動性の発生に軽く驚き、喜ぶ。そうした反応を見せるだけ。
すると、不思議なことに、子どもはどうせ能動的になるなら、大人が一番驚きそうな行動をとる形で能動的になろうとする。息子が後ろに下がるのではなく、前に進んだのは、私を驚かそうとしたからだろう。「見守る」というのは、子どもが能動性を示したときに驚き、喜ぶ姿勢を意味するように思う。
先日、娘が「漢字の書き取り競争をしよう」と言ってきた。「よーい、どん!」私は、もともと字が汚いこともあって、きれいに書こうとすると結構時間がかかる。でも、気がそれないから、一定のスピードで書き進む。娘の方が速くキレイに書けるのだけど、ウサギと亀じゃないけど、娘はよく気がそれる。
でも、私が一定のスピードで書き進んでいるのを見て、娘は気をそらさないようにし、私よりも先に字を書こうとした。結果、娘は私よりも先に漢字の書き取りを終えた。しかもきれいに。娘は、私よりも速く書き終えたことが誇らしそうで、「勝った!」と喜んでいた。
娘からすると、私を一つのバロメーターにし、それよりは前に進んでいるということを確認することで、能動感、達成感を感じ取ることができたのだろう。その際、私は娘にあれこれ指示出したりしない。別によそ見をしても何も言わない。でも、娘が能動感を感じやすい存在であり続ける。
私が一定調子で字を書き進めることで、娘は、わき目も振らずに漢字を書き進めることを楽しく、能動的に取り組むことができたのだろう。お父さんには勝つぞ、というワクワクした気持ちで。
私にとって「見守る」は、次のような条件を備えたもののように思う。
1)「ただ見てるだけ」ではなく、自分の気づいていなかったこと、知らなかったことを「観察」し、探し求めること。
2)相手から能動性が生まれるには?を常に考え、その能動性を損なうような働きかけをしないこと。能動感を感じやすい「仕掛け」だけを用意すること。
3)自分の望む、期待する「能動性」でなくても、本人の中から湧いた能動性なら、基本的には肯定すること。
4)本人がどう動くかは「任せ、委ねる」。
5)どうか人生を「能動的に楽しく」生きていきますように、と「祈る」。
6)そして、後は本人が能動的に動き出すまで「待つ」。
7)本人が能動性を発生させたときに驚き、喜ぶ。
以上のような心構えでいると、子どもは不思議なもので、必ずどこかで能動的に動き出す。それに対して大人が肯定的な反応を示すと、「え?能動的になるだけでこの反応?」と思うのか、ますます能動的になる。やがて、ただ能動的になるだけではなくて。
困難にあえて立ち向かうという、普通ならあり得ない方向で能動的になることで、こちらを驚かしてやろう、と企むようになる。こちらは、まさかそこまで能動的になるとは、と、心底驚かされることになる。それがまた、子どもは嬉しいらしく、さらに能動的になる、という好循環ができる。
「見守る」とは、手を出さずに見ているだけ、では、ネグレクト的「見守る」に陥りかねない。子どもの中に能動性が生まれやすい「見守る」がある。そのためには、観察すること、余計な手出しをしないこと、能動感を感じやすいような環境を整えること、能動的な動きは基本肯定すること、
そして、子どもがどうするかは任せ、委ねること、子どもが能動的に楽しく生きることを祈ること、待つこと、そしてその結果、能動性が発生したら驚き、喜ぶこと。
これらの諸条件を備えたのが、いい意味での「見守る」なのではないか、と思う。
上手に「見守る」ができている人は、これらの諸条件を満たしているように思う。けれど、「見守る」という言葉がザックリ過ぎて、解像度が悪いので、上手く実践できない人も多い。私もその一人なので、こうして解像度を高める言語化をしないと、上手く実践できない。参考になれば幸い。
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長々と書いているけれど、要するに「能動性だけをバロメーターにして接し方を工夫する」。それだけ。能動性を損なうなら改める、能動性が高まるように接し方を工夫する。すると、自然に「見守る」の7条件に集約していくように思う。