ソクラテスの産婆術、ユマニチュード、ガーゲン氏の「関係性」、子育ての共通点

「ところが、僕と一緒になる者、僕と交わりを結ぶ者はというと、はじめこそ全然無知であると見える者もないではないが、しかしすべては、この交わりが進むにつれて、(中略)驚くばかりの進歩をすることは疑いないのだ。」
プラトン「テアイテトス」(岩波文庫)p.35

ソクラテスが産婆術のことを説明しているシーンのところを抜き書きしてみた。ソクラテスは若者に問いかけ、若者がウンウン考えて答える、それにソクラテスはさらに問いかける、ということを繰り返すことで、若者から思ってもみなかった「知」が生み出されるのを助ける。それが産婆術。

産婆術、という表現が既に面白い。自分が知を生み出すのではなく、相手が知を生み出すのを助ける立場だ、というのだから。
この姿勢、ユマニチュードに似ている。イブ・ジネストさんは、立てないとされていた患者が、自ら立つという奇跡を何度も起こしてきたが、次のように言っている。

「「ジネスト先生は歩けなかった3万人の人を歩かせた」と表現されることがありますが、完全に間違っています。私は技術を提供しただけなのです。私が彼ら彼女らを歩かせたのではなく、ご本人たちが自身の足で歩いて、自身の勝利を獲得したのです。」
「ユマニチュードへの道」p.89

ユマニチュードはあくまで患者が能動的に動こうとすることをアシストする技術。能動的に生きることを諦めてしまった人から、能動性が再び現れるのを助ける技術。けれど、その本人の代わりになれはしない、ということを見失わない。

子育てでも同じだと思う。成長するのは子ども自身で、子どもの代わりに育ってやることはできない。あくまで育つのは子ども。周囲の大人は、そのアシストができるだけ。あとは祈るのみ。産婆術やユマニチュードと同じ姿勢でいる必要がある。

しかし、ここで「子ども中心」と考えるのは間違っているように思う。看護の世界でも「患者中心」というとらえ方があるらしい。けれどユマニチュードでは、患者を中心に置くことも、ケアする人間を中心に置くことも戒めている。中心に置くのは、あくまで「関係性」。

「2人のあいだにどんな関係性が築かれているかによりますから、看護師さんのケアを見て、「このケアはいい」とか「あのケアは悪い」という評価になり得ないのです。ケアの中心にあるべきは、どんなときも人間関係です。」
「ユマニチュードへの道」p.130

社会構成主義で有名なガーゲン氏は、関係性とは、ダンスのようなものだという。誰か片方がたとえダンスの名人であっても、もう片方がそれに合わせる気がなければ上手くいかない。その片方が合わせる気であっても、ダンスの名人がその気でなければやはりうまくいかない。

ダンスは、相手がこう来たなら私はこう、私がこうしたら相手がそれに応じてああした、という相互作用の中で紡がれていく。関係性は、相手の存在を云々しても始まらず、互いに相手と呼吸を合わせ、その都度臨機応変に変化していくもの。

ソクラテスの産婆術も、ユマニチュードも、子育ても、ガーゲン氏のいう社会構成主義も、みな、自分を中心に置かず、相手をも中心に置かず、関係性の中で常に動的にやり取りする中で、少しでも楽しいものになるように紡いでいくもののように思う。

うーん、まだ言語化が上手くいかないな。ここでは、ソクラテスの産婆術も、ユマニチュードも、ガーゲン氏の関係性の指摘も、そして子育てで大切なことも、みんな問題意識を共有しているようだ、という直観を記録しておくにとどめておこう。

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