振り返りに必要なのは「訊く」と謙虚さ
子どもたちの自然体験の活動で、後で大人たちで振り返りをするのだけれど、そのとき意識したらよいことは何か?という質問が。
振り返りではきっと、「今日はこんなことが起きた」などを報告し、メンバーで共有しているのだと思う。その時大切なことは、「訊く」ではないか、と思う。
私は相談事に乗るとき、こちらから意見を言うというより、徹底して「訊く」ようにしている。「そこのところ、もう少し具体的に聞いていい?」「その時その子はどう感じたんだろう?」「で、その時あなたはどう思ったの?」「次はどうしたらいいと思ってる?」問いを発して、話をフンフン聞く(訊く)。
訊かれた側は改めて考える。サラッと表面だけなでるようにしか考えていなかったことを、深掘りするようになる。すると、気づいていなかったことにも気づき、それを口にし、自分でもまたそこから思考が広がっていく。「似たようなこんな事例があったけど、今回はどうだろう?」と訊くのもアリ。
追加の情報を加えたうえで「訊く」と、訊かれた側は、その事例と比較することでまた新たな視点で振り返り、別の解釈をすることも可能になる。こうして「訊く」ことにより、どんどん深く、広く思考を広げると、様々なことが見えてくる。こちらが解答を出さなくても、本人が導き出す。
「訊く」は、思考を深め、広げる触媒。自分一人で考えていると、考え慣れた思考の経路、轍(わだち)にはまってしまい、思考が深まらず、広がらないことが多い。他人から訊かれることで、この人にも伝わるように、という意識が生まれるためか、違った視点で考えられるようになる。
どうせ振り返るなら、深掘りし、広げる振り返りがよいように思う。それには、その場にいるメンバーが「訊く」ようにした方がよい。「その時その子は、どうしてそう反応したんだろう?」そう改めて訊くことで、一人で考えていたのとは全然違う気付きが生まれることが多い。
「メノン」という本には、その家の使用人とソクラテスが、図形を前にしてやりとりする光景が描かれている。二人とも数学の素養はない。けれど、ソクラテスが「この図形を見て、何か気づいたことはないかい?」と使用人に訊ね、使用人はそれに答える、というやり取りを繰り返す中で。
まったく新しい図形の定理を発見した、という様子が描かれている。ソクラテスも使用人も、その場にいた誰もが、それまで全く知らなかった図形の定理が。
「訊く」は、その場の誰も気づいていなかったことに気がつくという、不思議な作用がある。新しい発見を行う素晴らしい触媒。
ソクラテスはこの技術を「産婆術」と呼んだ。それまで誰も知らなかった、気づかれていなかった知識を、「訊く」ことで生み出す方法。ソクラテスはこれの名手だった。
ソクラテスの周りには若者がたくさん群がる、人気者だった。年寄りなのに。ではソクラテスは若者に説教ばかりしていたのだろうか?
逆に、ソクラテスは若者の話を聞きたがった。「ほう、それはどういうことかね?」「それはつまりこういうことかね?」「だとしたらこれとも関係ありそうだが、どうだろう?」時折自分の感じたことも付け加えながら、若者に「訊く」。すると。
若者は訊かれたことにウンウン頭を動かし、答えを絞り出す。それにソクラテスは驚き、面白がり、さらに訊く。これを繰り返すと、若者はビックリする。いままで考えたこともないような深い思索の言葉が、自分の口から出てくることに。まるで自分が知恵者になったかのように、知恵が泉のように湧く。
「饗宴」という本には、ギリシャ一の人気者、アルキビアデースが、ソクラテスのそばにいたくて仕方ない理由を述べるシーンがある。ソクラテスのそばにいて、ソクラテスと話をしていると、自分の頭から知恵が泉のように湧いてくるのが嬉しくて、離れがたくなっていたらしい。
ところが面白いことに、若者にむけて「訊く」と、新しい発見、それまで経験したことのない深い思索を体験できるのに、傲慢な年配者に同じことをすると、天才と呼ばれた人たちさえやりこめる「弁証法」に変わってしまう。
「プロタゴラス」という本では、当時ギリシャいちの天才と言われたプロタゴラスのところに、ソクラテスが訪ねた。そして、若者に「訊く」ように、プロタゴラスにも「訊く」ようにした。するとプロタゴラスは「それはこういうことなのだよ」と、得意げに弁じたてた。しかし。
ソクラテスが「訊く」を続けると、プロタゴラスの論理にどんどん矛盾が見つかり、知ったかぶりであることが次第に浮き彫りとなり、最後には「実は私はその件については、よく知らないのだよ」と白状せざるを得ないところに追い込まれた。これが、弁証法と呼ばれている。
しかし、奇妙。ソクラテスは若者であろうとプロタゴラスであろうと、「訊く」だけ。なのに、若者相手だと「産婆術」となって新しい知識、発見が可能になる、ともに知的興味が刺激されて興奮するのに、傲慢な知識人に向けると「弁証法」となって知ったかぶりの実態を暴露し、やりこめてしまう。
どうやら、「訊く」が産婆術になるには、話し合う人たちの謙虚さが大切であるらしい。私たちは物事をまだ正確に把握できていないし、永遠にできないのかもしれない。そうした限界をきちんと把握し、そのうえでできる限り肉薄したい、という情熱を共有した時、「産婆術」になる。
ところが、一人傲慢な人間がいて、「この場の中でオレは知識も経験も才能もすべて一番だ」と考え、他の人を見下す気持ちを持っていると。ソクラテスの「訊く」は、その滑稽さを暴露する恐るべき破壊力を示す。いわゆる「弁証法」として相手を破壊してしまう。
そう考えると、冒頭の「振り返り」に話を戻すと、傲慢さは持たないようにした方がよい。何をどうしたらよいのかは、誰にもはっきりとは分からない。だから「訊く」ことで状況をまずなるべく正確に把握し、そのうえで浮かび上がってくる仮説を踏まえて、新たな工夫を考えた方がよいだろう。
誰かが安易に「ああしたらいいんじゃないの?」と答えをすぐにだそうとするのではなく。まずは「訊く」ことで状況をしっかり観察し、そこから浮かび上がってくる仮説から、新たな工夫を考える。そして次の機会にそれを試してみる。そうした試行錯誤が、「振り返り」には大切かもしれない。
「振り返り」も限られた時間で行う必要があるだろうから、あまりたくさんは訊けないだろうけれど、それでも一つや二つ、「訊く」をしておくと、訊かれた側は新たな思考が生まれ、新たな発見を促すことになると思う。「訊く」、そして傲慢さを持たず、謙虚に。それが大切かな、と。