容認できない2つの過ち

斎藤前兵庫県知事が当選するかも、という話があるらしい。応援するハッシュタグまで出てる様子。
ただ、自殺者が二人も出ていることは重い。かなり強引だったのだと思う。人を死に追い詰める手法をよしとする気に私はなれない。斎藤氏は自殺に追い詰めたことにどうも反省がない。だとすれば。

もし知事に返り咲いたとして、多少はやり方を変えたとしても、強引な手法を改めるのは難しいのではないか。何より、県職員の気持ちがついていかず、県政が停滞するのではないか。私は、人を死に追い詰める価値のあることって、この世にそうはないように思う。斎藤氏はその点がわかっているのだろうか。

私が、斉藤氏を容認し難いと考えるのは二点。
・告発者を特定しようとし、事実特定したこと。
・告発者を死に追い詰めたこと。
この二点は、許し難いと思う。たとえ告発者の主張が全てデマであったとしても。いや、デマであるとすれば、なぜスルーする度量を見せなかったのか。あまりにも狭量。

自分の意に反する人間の存在を許せないというのは独裁者と全く同じ気質。そして反対する者を死に追い詰めるのはヒトラーやスターリンの行った虐殺とどこが違うのか、私にはよくわからない。人を死に追い詰めてよい正義は、私はこの世にないように思う。

斉藤氏はもしかしたら素晴らしい改革をしたのかもしれない。ネットで話が出ているように、前知事派との権力闘争なのかもしれない。斉藤氏が正義なのかもしれない。しかし、告発者を特定し、その人物を死に追い詰めたことの2点は全く正当化できないと私は考える。人の死を正当化できる正義はない。

もし斉藤氏が知事に返り咲いた場合、次の2つの大きな問題が、将来に禍根を残すことになるように思う。
・改革の名のもとであれば人を死に追い詰めても構わない、という正当化を許すこと。
・反対して死に追い詰められるなら、何も言わないでおこう、と部下たちは考え、リーダーは裸の王様になってしまうこと。

問題は、斉藤氏から見た「景色」が、人を死に追い詰めたとかいうことはない、というものであっても、残念ながら関係ない。第三者から「改革のためなら人を死に追い詰めても構わないんだ」と、いささかでも見えることが大きな問題。斉藤氏の返り咲きは、改革で人を死なせることを正当化しかねない。

私はふだん、竹中平蔵氏の言動に大変腹を立てながらも、彼に死んでほしくないと何度も強調しているのは、「正義」の名のもとに人が死ぬのを容認すれば、ヒットラーやスターリンなどの虐殺者が生まれることを止めようがなくなってしまうから。虐殺者は必ず正義を標榜する。

斉藤氏がいかに正義であろうとも、
・告発者を特定しようとし、特定したこと。
・告発者を死に追い詰めたこと。
この2点は、私は許してはいけないことだと考える。将来、日本に、正義の名のもとに虐殺することを許す道を開きかねない。どんな正義があろうと、それは許してはならないと思う。

私は、民主主義におけるリーダーは、反対者の存在を容認できなければならないと考えている。もちろん煙たいだろうし、目にしたくない、耳にしたくない、と感じるのはやむを得ない部分がある。けれど、死んでほしいと願ってはいけない。それを許せば虐殺を許し、独裁を許すことになる。

そして、虐殺を許せば、人々は口を閉ざさざるを得なくなる。するとリーダーには、権力にすり寄り、利益を得ようとする人間しか近づかなくなる。すると、裸の王様となり、政治を誤るようになる。どれだけ正義からスタートしても、人を死に追い詰めることは、そこにつながっていく。

斉藤氏は、政治家としてそのセンスが欠けているように思う。自分が再選されるということが、日本の将来にどれだけの危険をもたらすことになるのか、分かっていない。改革のためなら人を死に追い詰めても構わない、とする考え方に道を開く。独裁者、虐殺者を生む道を切り開いてしまう。

問題はもう、斉藤氏に正義があるかどうかではなくなっていると私は見る。将来の日本に、反対者を死に追い詰めるような独裁者を許すことになるかどうかの歴史的な分かれ目になっているように思う。斉藤氏を支援している人は、斉藤氏に同情するあまり、この危険に気づいておられないのではないか。

私は、どんな改革をなそうとするにしても、死に追い詰めてはならない、と考えている。必ず逃げ道、ガス抜きを用意し、相手にも三分の理を認める度量が必要だと考えている。斉藤氏には残念ながらそれが欠けていた。そして少なくとも一人を死に追い詰めた。私は、この事実が非常に重いように思う。

これを見れば真実がわかる、と指摘された2つの動画を見た。計3時間強。2倍速で見たとはいえ、
・告発者を特定しようとし、実際特定した。
・告発者を死に追い詰めた。
の二点を覆す「事実」を見出すことはできなかった。そもそも議員あるいは知事が喋ってるだけの動画。喋りで「真実」は出ない。

なぜ告発者は、知事を非難する文書を作ったのか。大きく2つの可能性が考えられる。
・告発者自身の怒りから。
・告発者以外の誰かからの依頼で。
そしてどちらの理由にしろ、告発者を特定し、追い詰めれば、絶望して自殺する可能性を知事側は予想できねばならないと思う。

公務員としてはかなり地位の高い人がそんな告発文を書き、もし個人を特定されたら、社会的地位も名声も信用も全て失う。そのことを告発者はわかっていたはず。なのにそれをあえてしたなら、相当の理由があるとすぐ想像がつく。なのに個人を特定すれば、相手を追い詰めることになるのも想像がつく。

つまり、知事やその側近は、個人を特定し糾弾すれば、その人物を死に追い詰めることになりかねないと想定できていなければならない。少なくとも知事という、利害調整の最たる地位にある人間は、それを想定できる人間でなければならないと思う。なのに知事たちは追い詰め、そして自殺に追い込んだ。

私はこの時点で、斉藤氏は知事という地位に立つ資格を失っていると考える。告発者が死を選ぶかもしれないということを想定できないということは、自分が正義だと信じたら、人が死ぬ可能性があっても実行してしまうということでもある。私は、それは資格喪失の十分な理由になるように思う。

知事側は告発文書を怪文書扱いにすることもできた。事実ではないことを一つ一つ証明し、取るに足らない怪文書だと人々が思うように仕向けることもできた。知事側には手札がたくさんあった。なのに告発者許すまじという怒りに燃えてしまったのではないかと私には思える。その短慮が死につながった。

知事という仕事は批判されるのも仕事のうちになっている面があるように思う。なのになぜ、人を死に追いやるようなことが十分予想される手を選んでしまったのか。自分が正義で相手が悪ならどれだけやっつけ、追い詰めてもよいという思考があったのではないか。

実際に自殺した人がいる以上、知事側はその点を自覚する必要がある。それがない以上、知事になる資格はないように思う。
私は、知事になる以上、部下を死に追い詰めるようなやり方をとること自体を戒めねばならないように思う。

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