イジりを肯定する意見に対する反駁
「イジられキャラはいじられることでコミュニティの仲間入りができるのだから恩恵であり、いじり芸は肯定されるべきでは」という意見が複数。
この主張、私から見るといくつもの点で粗雑に過ぎるように思う。その点を考えてみたい。
まず、最大の過ちは「いじり」という屈辱的な形でしかコミュニティに入れないと前提しているその発想の貧困さ。
私の教え子で長年不登校状態だった引きこもりの子が。その子は当然、人の輪に入るのが超苦手。しかし一念発起して北海道に一人旅に。安く泊まれるライダーハウスに入った。
隅っこで小さくなっていると、一緒に食事しよう、と誘われた。ライダーハウスのルールだと聞いてその子は渋々参加した。ところが、とても居心地がよかったという。無理に発言を求められることもない。でもその場にいるみんなが、話の輪のメンバーとして自分を認めてくれている安心感。
その子はすっかり北海道を気に入り、ホテルの裏方の仕事を見つけて居着いてしまった。
この事例一つ見てもわかるように、コミュニティに入るのに「イジられキャラ」である必要はない。その座のリーダーが、その子の居場所を認める意識を持つ。ただそれだけでコミュニティに参加可能。
なのにイジられを許容するほかにコミュニティに参加する道を考えない時点で、冒頭の意見は発想が貧困。ただ、仕方ない面がある。今の日本のお笑いがそういうロールモデルを示してしまって、それ以外のやり方を示していない。そういう意味で、今のお笑いの罪は重いように思う。
また、冒頭の意見は、そうした自分の発想の貧困さをさておいて、いじりの人間を「コミュニティに入れて上げる恩恵を授ける人間」として上に奉っているという点でも、罪深いように思う。その構造が、弱者に道を閉ざしていることがどうして理解できないのだろうか。
冒頭の意見の持ち主が少なくない、という時点で、今のお笑いは罪が重い。そろそろアップデートしてもらわないと困る。もっと我々は発想を豊かに、様々な手法を開発する必要がある。弱者に屈辱を与える嗤いなど、くそっくらえ。