楽しくピアノを学ぶ
FB で面白い投稿があった。オーストリア人のピアノ教師と結婚した人の話。その人は子どもの頃、6年間もピアノを習っていたが、つまらなさ過ぎてやめた経緯があった。ところがあることがきっかけでピアノの面白さに気が付き、夫に教えてもらうことに。そのときの話が衝撃的。
日本だとピアノ習い始めの子に必ずと言ってよいほど課されるバイエルは、その夫によると、学生時代、音楽教育法の講義で「昔の悪い例」として習ったのだという。
悪い教え方の見本!
オーストリアではとっくの昔に、その子にあった教本を探して教えるのが一般的なのだという。
日本では正しい指使い(運指)を習得するのに最適だとして、バイエルを教えるのが普通だと言われる。そしてそのために、ワクワクしてピアノ教室に通い出した子どもたちが、次々とピアノ嫌いになっていく。その曲があまりにもつまらなさ過ぎて。
私は剣道をやっていた。ピアノでバイエルが基礎として重要視されるのと同様に、剣道でも素振りが重視される。しかし素振りだけだと当然ながらつまらない。つまらん!と思い始めてるタイミングで、先生が試合をさせてくれた。
先輩たちと違って、もうむちゃくちゃ。竹刀なんか振れてやしない。それでも面に当たったらとりあえず一本。勝って嬉しかったり、負けて悔しかったり。勝ったと言っても、先輩みたいにまともに竹刀を振っての一本じゃないのは重々承知。試合の場でも竹刀をまともに振っての一本がとれるようになりたい。
そうすると、基礎練習である素振りにも熱がこもる。今度こそまともな一本をとりたくて。
どうやら、オーストリアでのピアノの教え方も、そんな感じらしい。ピアノの楽しさがまず先決。楽しいから基礎の重要性もわかる。けど、基礎も楽しんで取り組めるよう、バイエルにこだわらず。
FBでその記事を紹介したら、「日本で楽しくピアノを学べる教室を紹介してほしい」と連絡が来た。息子が通ってるピアノ教室は基礎ばかりやらせて、実につまらなさそうでかわいそうなのだという。息子をピアニストにするつもりはさらさらないのに、将来ピアニストになるには早いうちから正しい指使い(運指)を覚えておかないと、と言われてもピンとこないという。私も同感だなと思う。もし、楽しくピアノを教えてくれる教室があったら、私も子供達を通わせたいと思うが、バイエルから教えることに固執する教室なら通わせたくない。
私はピアノにうとく、習ったことさえないが、同級生や子どもたちが次々と、好きだったはずのピアノを大嫌いになって教室をやめていくのを見てきた。その原因は決まって、バイエルの練習曲。運指を正しく身につけるという名目で、ひたすらつまらない練習を続けさせられる。それがつらいらしい。
私は、楽しさの中で、運指そのものも楽しみながら学ぶことは可能なのでは?という気がしている。そもそも運指という技術も、「こんな曲を弾けるようになりたい!」という情熱から生まれてきた技術なのではないかと思う。
エジプトでは面積を測定する技術が発達したという。ナイル川の氾濫で肥えた土が来るのはいいけれど、地形も変わるし場所も変わる。農家に、以前と同じ面積を割り当てるには、三角だろうが四角だろうが多角形だろうが、面積を正確に測れる技術が必要だった。必要が技術を生んだと言える。
あくまで推測に過ぎないけれど、きっと運指という技術も、この曲を弾くにはこう指を動かした方が、という必要に迫られて生まれたものだと思う。ならば、必要性を感じさせ、そこから運指を学んだ方がやる気も違ってくるのでは?という気がする。
しかしこう言うと。
必要性を感じたときにはもう遅い、変なクセがついてそれがなかなか抜けず、苦労することになる、という。その指摘はもっともだと思う。思うが、「だからバイエル」は、論理に飛躍があるし、もう少しよく考えてみた方がよいように思う。
娘は2歳になるかならないかで、もうハサミでチョキチョキ切っていた。何か切りたくて仕方ないようで。だから、好きに切らせていた。ただし、手を切りかねない、あるいは周囲を傷つけかねない扱いが起きそうなときに「ちょっと待ってね、こうするとほら、手を切りそうでしょ。アイタタタ。」
「だからこう切ってみてくれる?」そう言うと、素直にそう切り方を変えてくれる。切りたい、ハサミを使いたい、という欲求は邪魔せず、ケガをしないようにだけ、そっとアシスト。これなら、楽しみを邪魔することはない。それさえ気をつければ好きなだけ紙を切らせてくれるのがわかるから素直に聞く。
幼くてもケガをしそうなハサミの使い方はしなくなったし、人にハサミを渡すときは持ち手が相手に向くようにするクセもついた。楽しさであふれていれば、技術を習得するのも早いように思う。
でももし、ハサミを使う前に「ハサミの注意事項」を延々と聞かされ、基礎練習をひたすらやらされたら。
ハサミを使うこと自体を毛嫌いするようになるだろうし、練習自体を拒否するからうまくならず、それでいて衝動的にハサミを使いたくなるからかえって危険な行為が増えるかもしれない。バイエルの練習曲を初心者に課すのは、それに似ているような気がする。
恐らくだけど、オーストリアは、こうした人間心理を踏まえた上でのピアノの指導法が一般的になっているのではないか。他方、日本は、自分がされたことを次の世代にそのまま伝える、工夫のない指導法になっているのではないか。
マンガ「のだめカンタービレ」では、基礎から叩き込むことを重視して楽しさを置き去りにするピアノ教室の姿を、若干皮肉めいて描いてるシーンがある。楽しく弾きたいのにつらい修業をさせようとする人たちに反発しまくる主人公、のだめ。これは、ピアノ教室のあり方に一石投じてる気がする。
どうだろう。どなたか、オーストリアでのピアノの指導法を学び、それを日本に輸入し、広げようという人は出ないものか。冒頭で紹介した記事から察するに、オーストリアでは弾く楽しみを決して犠牲にしないという指導法になってる様子。なのに日本ではまだそうなっていない。
(注)多くの指摘で、すでに日本でも楽しさを重視した教室が多いことが判明。
楽しくピアノを学べる教室。そんな教室が増えたらよいのに、と思うが、見分けるすべがない。せめて「うちではバイエルやりません」という、非バイエル宣言する教室くらいあったら見分けやすくなるのに、と思う。
もちろん、楽しんでピアノを弾いてるうちに、もっと上手くなりたい!と情熱が湧いて、それを実現してくれる確かな技術の教室もあってよいと思う。しかしピアノの初学者は、まず楽しむことから始めた方がよいと思う。楽しんでいるうち、本当に上手くなりたい人が現れてくるだろう。
そうした人がプロを目指せばよいと思う。そこまでいかない人は、そこまでではないなりに、生涯ピアノを楽しめるようであればよいな、と思う。
ゆうメンタルクリニックというサイトで、興味深い話がマンガで紹介されている。どんな指導者につくと音楽家として大成するか?という問題。
「ほんわか優しく教える先生」「ビシバシ厳しく教える先生」「有名な音楽家」さあ、どれ?
有名な国際コンクールでトップだったピアニスト21人に共通していたのは、最初の先生は、ピアノの楽しさを教えてくれた、優しい先生だったという。
https://yakb.net/man/263.html
こうして考えると、日本のピアノ教室で基礎練習にこだわり、子どもたちから楽しさを奪っているのは、何かおかしいのかもしれない、と、振り返ってみるのもアリかも。
日本はどうも、つらく苦しい練習に耐え切ったあとに感動がある、というストーリーが好き。ピアノ教室もそうした求道感がある。
でも、剣道や柔道のような武道でさえ、楽しさを軸にして基礎練習を組み入れている。多くのピアノ教室のあり方は、あまりにも極端にストイック過ぎて、子どもに合ってない恐れがある。
もう一度オーストリアから、指導法を輸入してもよい気がする。
追伸
この文章はいささかバイエルに否定的過ぎるきらいがある。その点を改め、考察し直したのが次の文章。これもお読みいただき、バランスの取れた思考をお願いしたい。
「バイエル再考」
https://note.com/shinshinohara/n/n68415c3d3e2e?from=notice
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