「過読」考
読んだ内容を誤解するのが「誤読」とするなら、書いてもいないことを勝手に想像膨らませて「そうに違いない」と思うのは「過読」と呼んでよいかもしれない。
人間は書いてもいないことを勝手に想像膨らます不思議な機能がある。そしてこれはあながち悪い面ばかりでもない。
短歌や俳句は、わずかな文字数しか書くことができない。俳句だとわずか17文字。で、優れた短歌・俳句は、読み手にありありと想像を膨らませ、情景を思い浮かばせる。人間に過読機能があることを巧みに利用した芸術なのだと思う。
他方、過読は問題を引き起こすことがある。今回の私のツイートでも、興味深い「過読」が起きた。学生がいるのだからきっと大学の教員に違いない、と過読した人がいた。大学なのだから近くに買い物できるスーパーくらいあるだろう、と過読する人がいた。
赤ちゃんがいるのにご飯を奥さんに無理やり作らせたに違いないと「過読」し、決めつけた人がいた。学生に毎晩赤ちゃんの子守をさせたに違いないと過読した人がいた。修論の生殺与奪を私が握ってるに違いないと決めつけた過読もあった。
これらすべて「過読」。
私のところは独立の研究所で、大学ではない。駅からクルマで20分以上かかるド田舎。スーパーには自転車で片道20分かかる。私が大学の先生と考えるのは過読(大学へはたまに非常勤で講師をする程度)。
YouMeさんはまさに赤ちゃん育児の真っ最中だった。でも近くの宿舎から自転車で買い物に夜道を進む危険を考え、YouMeさんから「連れといでよ、毎日ご飯くらい食べさせてやるから」と言ってくれた。
その前の年は学生が5人来て、飯を食わせていた。中には五合飯を平らげる男子学生もいて、YouMeさんは「フードファイターを腹一杯にしてやる!」と、笑ってやってくれた。YouMeさんは本当にすごい人だが、それは前回の記事の趣旨とズレるから書かなかった。
しかし書いていないことに想像を膨らませ、レッテルを貼り、非難する「過読」者がそれなりにいた。これにはツイッターの改悪も影響している。最初のツイートの下に、本人のスレではなく感想が続く仕様に変更した。このため、過読する人のツイートが先に見える格好。後半の私のスレを見ない人続出。
私のアプリ(Android)だと、その改悪は修正されてるけど、まだ改悪のままの人もいるらしい。「過読」が起きやすくなっていた。それだけに、「過読」という現象がすごく浮き彫りになりやすかったとも言える。
私のスレが長くなる傾向になったのは、この「過読」現象に対応するため、というのもあった。140文字だけで過読が起きないようにするのは不可能。スレを続けることで過読を補正する情報を加えるようにしていた。しかし今回のツイッターの仕様変更はその点、ひどい改悪だった。
ところで、過読はうまく活用できると人々に訴える力にもなる。私がなるべく具体的なエピソードを添えるのも、エピソードから自分の体験を呼び起こし、想像を膨らませる機能が人間には備わっていると考えるから。具体的エピソードは良い意味で過読を刺激する効果が高い。
こうした「過読」を嫌うから、専門用語を好んで用いる人がいるのかもしれない。専門用語は定義がしっかり決まっていて、過読を許さないことになっている。だから厳密に話を進めることができるけど、つまらない話になりやすい。想像をかき立てられない思考というのは、砂を噛むような無味乾燥状態。
なぜ人間には「過読」という機能が備わっているのだろう?これは恐らく、人間が言語を操れるという事実と深い関係があるように思う。
言葉は必然的に、多くのものを削ぎ落としている。「動く」という言葉は、イスに座って貧乏ゆすりしてるのか、100メートルを全速力してるのか、それら情報が削れてる。
人間はだから、会話の流れや、話してる人の個性、自分自身の体験で言葉に肉づけをすることで、相手の伝えようとしてることを理解する。つまり「過読」機能がなければ、私達はほとんど他人の話を理解することができないだろう。「過読」するから私達はコミュニケーションが可能になる。
以前、妄想ニホン料理という番組があった。言葉だけで日本の料理を紹介し、それをもとに海外の人に料理を作ってもらうというもの。「具材は親子」「ご飯の上に乗せる」といったわずかな情報だけ与えると、もう実に様々な創作料理が現れた。カエルを食材にしたり。ちなみにこの日本料理は親子丼。
オープニングに「誤解は発明の母」というフレーズがあったが、まさにその通りだと思う。限られた言葉から「過読」し、それぞれの国の人達が自分の体験で肉づけした「誤解」により、新たな料理が生まれる。この「過読」「誤解」は、まさにイノベーションの母。
たとえば大砲に西欧人が出会ったのは、十字軍で中東を攻めたとき。西欧人は大砲の威力を「過読」し、自分たちも作ろうと励み、どんどん優れたものが生まれ、鉄砲も生まれた。ところが発明元の中東では手間暇コストがかかる割に効果がないということで開発が進まなかった。西欧人による「過読」が。
その後の西欧の巨大な軍事力へとつながり、世界を席巻することにつながった。中東で出会った大砲の威力を「過読」したからこそ生まれた現象だと言える。
人間は、正確なコミュニケーションが難しい。言葉は常に舌足らずであり、「過読」がつきまとうもの。
だからこそ、読み手としては、過読し過ぎていないか、という注意が必要。過読し過ぎ、相手に不要なレッテルを貼ったり、貶めたりする不当なことをしていないかの反省が必要。
私が「何事も仮説に過ぎない」の主張するのは、この点もある。私達は物事を正確に把握することができない。
正確に把握できず、過読せざるを得ない生き物であることを自覚し、「とりあえずこういうことではないかと仮定しておく」という仮説を持つしかない。そして過読、誤解が判明したら修正する。そうした心がまえが非常に重要だと思う。
ところで、今回は別の興味深い現象もあった。自分が勝手に「過読」して誤ったレッテルを貼り付けたくせに、その誤解を解く情報を追加したら「後出しで誤魔化そうとしてる」と言って、自分の貼ったレッテルを改めようとしない人も現れた。
人間は、相手が、自分の貼ったレッテル通りの人間でいてほしい、という身勝手な願望を持つことがあるらしい。自分が悪人だと決めつけた人間は、何としても悪人でいてもらわなければ困る、という、実に妙な願望。「仮説」ではなくもはや「妄執」とでもいいたくなる。
言葉足らず、舌足らずなことは誰にでもある。なのに最初にそれを表明していなければ、あるいは自分の目に入らなければ、言ってないも同然、という身勝手さは、一体どこから生まれる心理なのだろうか?そのへんもいずれ、言語化を試みたい。