「ほめる」「話を聞いてあげる」の空疎感

宮口幸治「ケーキの切れない非行少年たち」を読んでいる(私はだいたい、話題になっている最中は読まない)。この中で、「ほめる」「話を聞いてあげる」という、昨今の教育界でやたら流行している方法の有効性に疑問を呈している。私も同感。この二つ、特に効果ないと感じている。

「ほめる」って言ったって、無理やりほめるところを見つけてほめても、「ほめるほどのことではない」と、ほめられる側もほめる側も感じてしまっていることしばしば。これではほめたとしても、聞かされる側はしらけてしまう。しらじらしいと感じてしまう。

「話を聞いてあげる」も、聞いて、それで?という気がしないだろうか。まあ、話を聞いてくれない人ばかりの中で、話ができるのは少しの慰めにはなるかもしれない。でも、その人の成長につながるかというと、それも話が別。子どもの指導において、「ほめる」「話を聞いてあげる」は果たして有効なのか。

私はまず、その子の実力がどこまでなのかを正確に把握することが大切だと思う。それは指導者だけでなく、その子自身にも感じてもらうことが大切。私の塾では、小学校の算数で、確実に間違わずに解けるのはどの内容までか、さかのぼって調べることにしていた。

あくまで私の指導していた地域の、その時期の子どもたちに限っての話だけれど、偏差値64未満の子は小学校の内容のどこかで抜け落ちがあった。速度や割合の問題が苦手だったり、図形の問題が苦手だったり、分数が苦手だったり。と、少しずつさかのぼっていく。

正解を出したり間違ったり、という場合は「理解がアヤフヤ」として、さらにさかのぼる。すると、偏差値50未満の子は、分数の計算でやや怪しい子が増えてくる。場合によっては割り算も苦手。九九もろくに覚えていない、という場合もある。

ただ、会話が可能な子の場合、足し算引き算は(桁がべらぼうに増えると話が別だが)できる子がほとんど。こうして、さかのぼってさかのぼって、着実にできるところとアヤフヤな部分の境界線を、指導者と子どもとで共同して探索していき、その境界線を確認する。

境界線が確認できたら、「できない」を「できる」に変えるべく、そこから学習をやり直す。小学校を6年間過ごしていると、たまに正解を出す変なコツ(あるいは暗記)をつかんでいたりする。しかしそうしたアヤフヤな理解は排除して、基礎固めをする。

わざと間違えやすい、揺さぶるような問題を出して、それでも間違わないようになるまで、学習を念入りに繰り返す。どんな意地悪問題(ただし難解ではない)を出しても間違わなくなったら、本人も自信がつく。そうなったら「やったやんけー!」と私は驚きつつ、一緒に喜ぶ。

すると、本人も喜ぶ。これは、安易に「ほめる」のとはかなり様子が違うように思う。本人も私も、「できない」ことを確認済みの上で取り組んでいる。果たして本当に理解できるのか、本人も私も若干不安に思いながら取り組んできてる。もう何年も間違い続けてきた歴史もあるし。でも。

アヤフヤなところを一つ一つ丁寧に潰し、勘違いしやすい、間違いやすいところも私がわざと突いて揺さぶったりして、それでも揺るがず正解を出せるようになった時、本人も「ついにやった!」という気持ちが持てる。私も「本当にできた!」と驚き、嬉しくなる。確信が事前になかったからこそ、驚く。

「驚く」ことができるのは、子どもも私も、それができない状態であったことを確認していたから。丁寧な観察から、そのことを互いに把握したうえで取り組んでいたから。そしてそれができるようになるとは、本当のところは子どもも私も確信できたわけではなしにスタートしていたから。

でも幸い、できるようになった。だから驚けるのだと思う。
世に流行している「ほめる」は、本人が動き出す前にほめている。いわば先回りする「ほめる」ばかり流行してる気がする。でも、それではまだ本人が立ち向かっていない状態なのにほめてることになる。

でも、「驚く」は先回りすることができない。本人が取り組み、課題を克服するということが起きなければ、驚くことができない。一緒に「できない」ことを確認し、それを「できる」になるまで試行錯誤して取り組んで、やり遂げて初めて「驚く」ことができる。「驚く」は常に「あと回り」。

子どもは、中学生にもなって小学校の内容ができないことを笑われるのではないか、と不安になっていることが多い。しかし、私は偏差値64未満は小学校の内容のどこかに欠落があると考えているから、できなくて当たり前だと考えており、バカにすることがない。だから子どもも安心するのかも。

そして、着実に「できる」底を確認してから、「できない」を「できる」に変える作業を、一緒に伴走して進めるから、子どもは心強いし、自分の成長をちゃんと観察し、把握し、一緒に驚き、喜んでくれるから、やる気が湧くらしい。

このように、その子がどこでつまづいたのか、そのつまづきポイントを把握できるまでさかのぼり、そこから復習し積み上げる、一つできたら一緒に驚き、喜ぶ。この方法だと、どんな成績の子も着実に成績を伸ばすことができると考えている。

「ほめる」とか「話を聞いてあげる」は、なんだか解像度の悪すぎる手法のように思う。子どもが今、どんな課題を抱えているのか把握する具体的手法が明示されていない。だから、冒頭の著者もやや批判的な捉え方をしているのだろう。私も、正直、同感。

追伸
あはは!自尊感情とか自己肯定感とか、やたらと人の口にのぼる言葉にも辛辣な指摘が!同感!
以下抜粋!

「"自尊感情が低い"といった言葉に続くのは、「自尊感情を上げるような支援が必要である」といった締めの言葉です。こんな文章を見る度、「そもそも文章を書いている心理技官の自尊感情は高いのか」と聞きたくなります。無理に上げる必要もなく、 低いままでもいい、ありのままの現実の自分を受け入れていく強さが必要なのです。もういい加減「自尊感情」といった表現からは卒業して欲しいところです。」p.126

「漢字ができなければひたすら漢字の練習をさせる、計算ができなければひたすら計算ドリルをやらせるといったように、できないことをやらせようとしてしまいがちです。計算や漢字といった学習の下には、「写す」「数える」といった土台があり、そこをトレーニングしないと子どもは苦しいだけなのです。」p.130

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