「帰納と演繹」考

「帰納と演繹」考。
と言っても、漢字からして難し過ぎ。日常で使わないからピンとこない。ピンとこないまま考えてもロクな考察にならない。だからこの二つの言葉は使わないで考えてみる。
私は「観察」を特に重視している。予断を持たずに虚心坦懐に観察すると、自然に無意識が仮説を紡いでくれる。

もしかしてここはこうなってるの?だとしたら、こんな風にしたら別の結果になるんじゃ?と、たくさんいじくり回し、観察してれば自然と仮説が湧いてくる(帰納)。ともかく観察する。ただ眺めるだけではつまらないから、叩いてみたりかじってみたり、工夫し、試して、その結果も観察する。

膨大な情報を五感で感じ取り、そこから浮かび上がってくる仮説を紡ぐ(帰納)。これがとても大切なことは、「群盲象を撫でる」というエピソードからも窺える。
目の見えない人何人かが、ゾウを初めて触った。尻尾を触った人は「呼び鈴のヒモだ」、耳を触った人は「カーテンだ」、牙は「武器だ」。

みんな、自分が実際触ってるから確信がある。尻尾握ってる人は「何言ってるんだ、カーテンのはずがないだろう!ヒモだよ、ヒモ!」、耳を触ってる人は「武器なわけないだろう!カーテンだよカーテン!」皆、自分の触っているものこそ絶対正しいと考えて、他人の言うことに耳を貸さない。

自分の体験、確信と論理的に一致するもの以外は認めない、という態度が起きると、収拾がつかなくなる。
けれど誰かが「ちょっと待て、俺たち、同じ物触ってるんだよな?こんなにみんながめいめいに違うこと言うの、おかしくないか?」と声をかけたとたん、みんなが一緒に考え出す。

呼び鈴のヒモだと固く信じていたけど、改めて虚心坦懐に観察してみると、「あれ?時々動くね、このヒモ。先に毛がある」。カーテンだと信じていた人は「これ、腰の高さまでしかないや」。武器だと思っていた人は「二本突き出てて、上に反ってる」。虚心坦懐に細かく観察し出す。最終的に。

「みんなの観察結果を総合すると、これ、噂に聞くゾウじゃないか?」と、妥当な仮説にたどり着く。
徹底して観察すること。最初に呼び鈴のヒモだと思ってしまうと、呼び鈴のヒモである証拠ばかり探して、時々動くという大切な情報を無視してしまいかねない。観察の際は予断を持たないことが大切。

また、自分の見立ても、いつ覆されるかわからない「仮説」と考え、絶対正しいと思い込まないようにする必要がある。すると、五感を通じて膨大な情報が入ってきて、自然と仮説が紡がれる。そしてなるべく、ひとりだけでなく、多くの人の観察結果も取り入れた方がよい。

尻尾しか触っているいないのに、呼び鈴のヒモ以外の見立てを否定する姿は、「演繹」してる人にまま見られる。自分が絶対正しいと思うものと論理的に一致するもの以外はみとめない、という態度は、尻尾しか触っていないのに「これは呼び鈴のヒモである」と決めつけるような、滑稽な時がある。

もしこの目の見えない人たちが、別のゾウを触る機会があったとしたら、今度はたちどころにゾウだと見抜くだろう。呼び鈴のヒモのようなものがあり、カーテンみたいなのがぶら下がり、武器みたいなのが反り返っていて、どうも全体に巨大なもの。ああ、これはゾウだな、と。

いくつかの特徴を備えているものはゾウである可能性が高い、というのは、論理的に推定してる。これは「演繹」にあたる。演繹は、論理を引っ張って伸ばして、未知のものもこれなんじゃ?と類推するものだけど、虚心坦懐に観察し、ゾウだと見極めた体験なしだと、「ヒモに決まってる!」になりかねない。

私は、そういう意味では、徹底して観察し、仮説が自然と湧いてくる(帰納)という方をまずは大切にしている。ある程度、そうした体験がどんどん積めてくると、「こういう特徴が揃ってれば、あいつの可能性が高い」という類推(演繹)も、妥当なのが可能になるけど、観察が少ないとダメ。

現実の観察、体験をおろそかにし、本ばかり読んで、本の内容から論理を引っ張ってきたリクツ(演繹)をふりかざすと、だいたいうまくいかない。現実離れした論理体系構築してしまう。
徹底した観察(帰納の大前提)、これがとても大切な出発点のように思う。

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