だんごサッカー

初心者ばかりの少年サッカーは全員がボールに群がるので「団子サッカー」と言われる。ボールが移動すると団子も移動する。少しサッカーに慣れたチームならパスワークができ、団子のない場所のメンバーにボールを蹴って、あっさり突破される。団子サッカー、スキだらけ。

このツイート群を書いたとき、父親が働いて八万円くらい返せ、という意見が少なくなかった。もしそうしていたとしたら、商売を手放したことでできた巨額の借金を返済するメドは立たず、私は大学どころか高校も行けなかったかもしれない。父の転職のための勉強は必須だった。
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パスワークのできるサッカーチームになるには、グラウンド全体に散らばった選手たちが決して戦いを放棄したわけではないこと、ボールに食らいつく選手がいつかパスを出してくれると信頼し、散開してる選手はまだ来ないチャンスのためにパスができるよう準備している、という互いの「信頼」が必要。

「ほら!お前もボールにくらいつけよ!」と、選手全員に怒る人間がいたとしたら、グラウンド全体に散開する、パスワークのできるサッカーチームにはならない。団子サッカーが続くことになる。結果は、ボールの行方に常に左右され、翻弄され、疲れ切ることになる。団子サッカーは残念ながら近視眼的。

私たちは、他人への「申し訳」のために行動を決めることが多い。目の前でできた八万円の返済に自分も参加しなければ、と、家族の他のメンバーへの「申し訳」のために近視眼的に動いたとしたら、もっと大きな視野で考えたとき、家族全員の乗る船が難破するのを食い止められない恐れがある。

母が日々の生活費をなんとかまかなうのは必要なことだった。私が家事を担当することで母の負担を軽減することは当時、大切なことだった。父が勉強し、転職を成功させ、大きな借金を返済することは、家族全体が再浮上するのに欠かせないことだった。それぞれが持ち場で最善を尽くすのが必要だった。

もし、常に最善を尽くしているのは自分だけであり、他の人間はサボってばかりという価値観を持っていたとしたら、メンバーは近視眼的な行動に縛られ、誰もいないフィールドでパスを待つという行動を取れなくなる。その結果生まれるのが団子サッカー。

それぞれがベストを尽くそうとしている。そうした信頼があればこそ、それぞれが違う行動をとり、一見バラバラに行動しているかに見えて、実はパスワークを自在に行えるための散開の体制を取れる。最高のチームワークを発揮するとき、それは各メンバーが多彩な行動を取れる時。

日本はよく「一致団結」という言葉を使う。しかしそのために同調圧力となり、全員が同じ行動を取るよう求める「団子サッカー」になりがち。それはチームワークではない。自分と同じ行動をとるよう求めるのは、残念ながら近視眼的。メンバーを信頼していない証拠。

パスワークのできるチームワークを形成するには「あいつはあいつで考えあってのこと」と信頼し、いつか来るべき時に備えてくれている、と思えるかどうか。それができるとき、一気に形勢を逆転させるパスワークが可能になる。
団子サッカーの限界を、私たちは知る必要がある。

大峰山を登ってる途中、生徒の一人が捻挫した。私はとっさに「こんな山中でこれでは登山中止だな、荷物は全員で分担するとして、どうやってこの子を担ごうか、親はケガさせたと怒るだろうな、どう対応しようか」と常識的なことを思い浮かべ、常識的に倫理的な行動をとろうとした。その時、父は。

「ハーッハッハ!まーぬーけ!捻挫しよった!ハーッハッハ!」と大笑いしてその子をバカにした。その子はカンカンになって怒り、助けようとする手を振り払い、荷物も渡そうとせず、「自分でかつぐ!歩く!」と言って、歩き出した。そしてついに残り2日間、歩き切った。

ふもとに下りたとき、「まさか歩き切れるとはなあ」と父は笑った。「おっちゃんが笑うからや!」と言いながら、その子も誇らしげに笑った。
それから後、その子は劇的に変わった。実はこの子、気が弱く、同級生からいじめられていた。そんな自分をどうにかしたいと願っていた。そんな時期だった。

険しい山を登り切った。しかも捻挫でみんな心配する中で!これ自信となり、自分を改造する様々な挑戦を続け、成績もグングン上昇した。
父のとった行動は大変リスキー。捻挫を悪化させ、親御さんから訴えられるリスクもあった。けれど父は「この千載一遇のチャンスを逃してはいけない」と考えた。

たとえ訴えられることになろうと、ケガの後遺症が残ることになり、その責任を負わねばならなくなったとしても、この子が変わるチャンスはいま、ここだ、と考えたらしい。大笑いし、バカにし、怒らせることで、怒ることがなかった気弱な子を奮起させる。これは「賭け」だったと思う。

もちろんこれはいかん、と思ったら自分一人でその子を担いで下山する覚悟で、その子につきっきりで付き合った。捻挫してゆっくりとした歩みにつきあうのはしんどい。それもこれも全部自分で引き受けるつもりで、父はとっさに大笑いしたのだという。

アクシデントはしばしば、子どもが大きく変化成長するチャンスになることがある。父はその「機」をつかむのがうまかった。私が常識的な倫理に囚われ、その場で「よい子、よい人」に見える行動をとろうとすることが多い中、父は悪人に見える行動をとってでも、形勢を変える一手を打つのがうまかった。

私たちは、いま、この場で「常識的によいとされる行動」をとろうとしてしまう。しかしそれが果たしてよいことか分からない。一見悪人のように見える行動が、実はかねてから懸案だった問題を改善するための決断になることもある。

父が大笑いしたとき、常識的に行動しようとしていた私もさすがに「あ、そういうことか、怒ることのなかったこの子を、怒らせようとしてるのか」と察することができた。この子は自分の弱さに逃げるクセがついていて、それが学習にも交友にも事態を改善できない課題になっていたことを思い出した。

団子サッカーしか知らない人間は、誰もいない空間で突っ立ってる人間は、やる気のない悪人に見えるかもしれない。けれど全体を見渡し、機会を窺う人間なら、パスワークがてきる位置に散開する。団子サッカーをしていた人も、そうしたプレイがいかに効果的かわかってくると、ボールに群がらなくなる。

未来は読めない。仮説を立てて行動するしかない。ある種の賭けの要素がある。それが単なるリスクにならないよう、常に事態を観察し、臨機応変に行動を変える必要がある。それでいて、俯瞰する視点も持ち合わせる必要がある。そうしたことができるようになるのが、大人になるということかもしれない。

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