中央より辺境の方がやりやすい
私は三重の田舎に住んでいるけれど、田舎でよかったなあ、と思う。東京に住む友人複数から「東京に来い、テレビや新聞やネットでは決して手に入らない貴重な情報が東京にいればいくらでも手に入るぞ」と言われたことがある。私は「そりゃごめん被る」と断った。
ヘタに中央に近づいて、聞きたくもない秘密を聞いてしまったら、「バラしたら許さんぞ」と秘密を共有する共犯者にされかねない。そうやって秘密を共有するから出世できるのかもしれないが、逆に言えば出世すればするほど秘密が多くなり、言いたいことも言えなくなるだろう。
「篠原君も実現したいことがあるなら、出世して好きなことをすればいい」と、何人からも言われたことがある。その発言、いくつかの意味でおかしいと思う。人の上に立てば好きなことをしてよい、という考え方が既に傲慢だし、間違っている。人の上に立てば、多くの人々の幸せを願わねばならない。
つまり、人の上に立てばたつほど身勝手は許されない、というのが私の考え。身勝手なことをしないとみんなから信頼されるから権力が付与される。その権力でもって、なるべく多くの人の幸せが実現する方向へと突き進む。それが人の上に立つ人間の役割だと考えている。
だから、もし「人の上に立ったのだから好き勝手する」なんて人がいたら、私は歯向かう。「あなたの役割はみんなの幸せのために動くことだ、身勝手をするためにあなたに権力を付与したのではない」と怒る。私は身勝手な上司に対しては遠慮会釈なくかみつくので、上からだいぶ煙たがられてしまう。
もし私が人の上に立ち、好き勝手を働こうとしたら、きっと部下から突き上げられることだろう。そりゃそうだ。人の上に立つことが許されるのは、みんなの幸せを願い、それを実現する人だと信頼するからであって、身勝手を許すために上に立たせているのではない。
そんな考えでいるから、以前、橋下氏が「選挙で選ばれたら白紙委任状を手に入れたようなもの」と発言した時、「何ぬかしとんねん」と、私は猛反発した。選挙で選んだのは、あくまでみんなの幸せを実現する人だと信頼してのこと。身勝手を許す白紙委任状なんか渡してはいない。
でも、非常に発信力のある人の、発信力のある時期に出た発言だったから、勘違いした人が出るのが続出。兵庫県知事の今のていたらくも、この「白紙委任状」が生んだ勘違いから生じているように思う。みんなの幸せを祈り、実行することから外れた身勝手者は、人の上に立つ資格はない。
SNSが発達する前は、政治力を発揮するには人の上に立つしかなかったのは、事実に近かったと思う。だから「実現したいことがあるなら人の上に立て」というのは、一定の説得力があったかもしれない。しかし、SNSが発達した現代では、必ずしもそうとも限らないように思う。
ツイッターが典型的だけど、共感を呼ぶツイートがあれば、たとえ無名の人がボソッとつぶやいた一言でも大量にリツイートされ、バズる。そして、それが社会の問題をえぐった一言であったなら、人々の思考を刺激し、何とか改善しなければ、という思いを持つ人が増える。すると世の中が変わる。
つまり、人の上に立つことがなくても、みんなの幸せにつながるアイディアが出てくれば、それは瞬く間に共感を得て、政治家はそれを実行せずにはいられなくなる。保育園の不足が問題視され、結果として保育園が増えたのも、そうした事例の一つだろう。
ならば、変に中央の近くにいて、聞きたくもない秘密を耳にしてしまったがために「俺がリークしたなんてバレたら怖いな」なんてビクビクしたくない。田舎にいて、中央の話なんかウワサでも耳に入ってこないような生活をしていた方が、思い切り好きな発言ができてラク。
政治的な発言をするにしても、変にドップリ政治の世界に身を入れると、かえって発言できなくなる。秘密を漏らしてもらうには秘密を守る約束ができなければならない。秘密を守るようになったら、ろくに発言できなくなる。中央に近ければ近いほど、物が言えなくなってしまう。
その点、私は辺境にいることが明らかで、社会的地位としても末端なので、安心。何の情報も入ってこない。誰もが目にする情報を目にし、耳にして考えることができるだけ。だから、私の発言は憶測でしかない。邪推でしかない。証拠がないのだから、信じるに値しない。誰も信じなくて構わない。
ただ、政治に関するリアルタイムな情報というのは、そもそも証拠を提示しにくい性質を持つ。もし証拠が提示されてしまえば、秘密裏にことを進めようとしている人たちは、実現を断念したうえで、「そんなつもりはさらさらない」ととぼけてしまい、なかったことにしてしまう。証拠が証拠でなくなる。
証拠を示せばなかったことにされ、しかも、証拠を漏らした人間は報復されかねない。証拠を示さなければ、誰も信じない。というわけで、政治的な話というのは、そもそも証拠を示すということが無理な分野だと言える。もともとそうなら、証拠を示すことを最初から諦める必要もある。
政治的なことを推測するには、「群盲象を撫でる」が有効かもしれない。このことわざは、目の見えない人数人が初めてゾウを触った時、あまりに大きすぎて部分しかわからず、「ヒモだ」「カーテンだ」「柱だ」「丘だ」と、てんでバラバラの意見になり、まとまらなかったという話。でも。
「俺たち、同じものを触っているんだよね?」というコンセンサスさえ得られれば、みんなが訴えるそれぞれの部分的な証拠を持ち寄り、「これ、ウワサに聞くゾウじゃないか?」と見当がつく。このように、部分的証拠を総合して、それらを包摂できる仮説を紡ぎ出すのは、科学でも行う手法。
ならば、中央にいなければ秘密がつかめず、秘密をつかんだら仲間扱いされて秘密を明かせない、そんな中央からは離れてしまって、表面に現れる部分部分を観察し、それらを総合して理解できる仮説を紡ぎ出したほうが、庶民には有効な手のように思う。
そして、好きなように仮説を紡ぐには、むしろ中央にいないほうがやりやすい。変に「関係者」になると、秘密を共有させられて、発言も思考も許されなくなる。面倒くさい。それなら外部にいて、外部で好きなように仮説を立てて好きなように発言していた方が気が楽。
もちろんこのやり方は、きちんとした証拠がつかめないし、提示もできない。だから「証拠はあるのか?」と言われると、正直に「おまへん!」というしかない。憶測、邪推でしかない。でも証拠なんか知りもしないからこそ、憶測、邪推が自由にできるのだと思う。
ただしその際、重要なのは、憶測、邪推であることを明言すること。何か知っているフリをしないこと。知らんもんは知らん。それを明確に示すこと。
でも、私はあながち、憶測、邪推の力って、バカにならないと思う。的外れも多いだろうが、憶測、邪推も数が出ると、面白いものが現れる。
ただ、それを受け止める側も、勝手に真実だと思い込まないようにすることが大切。憶測は憶測でしかない。邪推は邪推でしかない。仮説は仮説でしかない。そのことを弁えたうえで、思考を進める手助けとするのは、私は構わないと思う。憶測、邪推、仮説は、間違っていたら捨てたらいいものだから。
ただし、もう一つ大切な条件がある。憶測、邪推、仮説は、みんなの幸せを願うものであること。誰かの人生を追い詰めるようなものであってはいけない。人を不幸にするようなものは、たとえ憶測、邪推であっても、それは非常にまずいので、戒めるべきだと思う。
その意味では、誰かの「存在」を「悪」と決めつける邪推、憶測はよろしくないように思う。その人の「行動」を問題視するかたちならば、その行動さえ改めてしまえばその人は無罪放免になるから、「行動」を問題視する形に邪推、憶測をとどめることも重要だろう。
結局、何をするにしても、みんなの幸せを願う形でないものは、やはり大きな問題になるということなのだろう。その基本を外すと、どんなこともろくな結果にならない。発言とは、行動とは、必ず人との関係性の中で行われるものなのだから。