虚心坦懐に、五感を通じて観察すること
福永光司さん執筆「荘子」内篇のあとがきには、印象的なエピソードが。ある意味、「荘子」の内容以上に強い衝撃を受けた。これを読んでいなければ、私は阪神淡路大震災でろくな活動ができていなかったと思う。子育てについてこんなにツイッターでつぶやくこともなかったろう。そのエピソードとは。
福永さんが少年の頃、母親から謎をかけられた。「あの曲がりくねった木、まっすぐ見るにはどうしたらいい?」その木はどこからどう見ても曲がりくねっていて、まっすぐ見ようがなかった。製材にしてまっすぐに矯正、なんて答えを求める母親でもないし。ウンウン考えた挙句、降参した。母親の答えは。
「そのまま眺めればいい」。
人を食ったような答え。しかし、私はこのやり取りに強い衝撃を受けた。
私なりに解釈すると、次のようになる。私たちは「まっすぐ」という言葉を聞くとそれに引きずられ、まっすぐかまっすぐでないか、というものさし、価値規準を胸に抱いてしまう。すると。
曲がっているものは「曲がっている」としか見えない。それ以上の情報が目に飛び込まなくなってしまう。五感がシャットアウトされてしまう。しかし、いったん「まっすぐ」という言葉を脇に置き、心にできそうな価値規準も放り捨て、虚心坦懐に目の前の木を観察すると。
あ、いいにおいがする。木漏れ日が気持ちいい。風で揺れた葉擦れの音がする。なんて立派な根なんだろう。あの枝は前の台風の時に折れたのだろうか。虫が樹液を吸いに集まっている。ゴツゴツした木肌だなあ。
五感を通じて、膨大な情報が飛び込んでくる。
「まっすぐ」という言葉を聞いた途端にものさし、価値規準を胸に抱いてしまうと、見ていても見えず、聞いていても聞こえず、匂えどもにおわず、ただ「まっすぐ」か「曲がっている」かしか考えられなかったのに、言葉を捨て、価値規準を捨て、観察に徹すると、五感を通じて豊饒な情報が飛び込んでくる。
母親が「まっすぐ見るには?」と謎をかけ、「そのまま眺めればいい」と答えたのは、言葉に縛られず、心にものさしや価値規準を抱かず、ただひたすら虚心坦懐に、五感を通じて観察することが大切だよ、ということ。つまり、「まっすぐ見る」=「素直に眺める」ということだったのではないか。
私たちは「まっすぐ」などの言葉をかけられた途端、ある種の「思枠」にはまってしまう。そして、まっすぐかまっすぐでないかという二分論的な単純思考しか取れなくなってしまう。すべてのものはまっすぐかそうでないかという価値規準でしか見えなくなる。色眼鏡になってしまう。
福永少年の母親はそれを伝えたかったのだろう。言葉に引きずられず、自分の心の中にある価値規準でものごとをあしらったりせず、まずは虚心坦懐に、五感を通じて観察すること。すると、言葉や価値規準で縛られていた時とは段違いに膨大な情報に触れることができる、ということなのだろう。
私はこのエピソードに触れてから、物事を観察するとき、いったん言葉を捨て、価値規準を捨て、虚心坦懐に、五感を使って観察するようになった。まるで赤ちゃんが初めて目にしたもののように。五感を使って、ありとあらゆる方法で観察するように。すると。
膨大な情報が飛び込んでくる。すると自然に仮説が湧いてくる。「これってここを押したらこうなるのでは?」それも試してみる。いろんなインプットをしてみて、どんなアウトプットが返ってくるかも試行錯誤し、その結果を楽しむ。するとどんどん仮説が湧いて、いろいろ試したくなる。
阪神淡路大震災で、神戸市から食料と飲料水が一時的に消えようとしている、ということを察知できたのも、このエピソードを読んでいたからかもしれない。全国の人たちが大注目しているこの震災で、まさかそんなバカなことが起きるはずがない、という「思枠」を抱かずに済んだ。
https://note.com/shinshinohara/n/nf933c8ff2e62
東灘区役所に行ったら、食料も飲料もなかった。神戸市はお弁当の配給をやめようとしている。避難所での備蓄はわずか。テレビ報道は被災地の両端の避難所で、芸能人提供の料理を被災者が食べ、贅沢しているかのような報道を続けている。物資は神戸市が送らないでくれ、とアナウンスしている。
神戸市の物資集積所である摩耶倉庫には衣料品はあっても食料・飲料はなかった。近隣の避難所にも食料の備蓄はわずか。これらの情報を総合すると「神戸市から食料・飲料が一時的になくなるリスクがある」と判断できた。その後、ボランティアで手分けして必死に訴えて、危機を克服することができた。
私たちには「予断」が起きやすい。「まさか」と思ってしまう。これは甘そうだ、と思って口にした時、塩味だったら「なんだこれ?」とびっくりして吐き出してしまう。たとえ塩味のおいしいものであっても、予断で甘いものと思ってしまうと、味覚もそうだろうと身構えて準備してしまう。
重そうな荷物を見た時、無意識のうちに体勢を整えるが、思った以上に軽いとすっぽ抜けてしまう。逆に軽いとなめてかかって重いものだったりすると、腰を痛める。私たちは無意識のうちに「予断」し、観察を怠る生き物であるらしい。
「予断」を持つことで私たちは五感が訴える情報を受け取ることができなくなり、その結果、適切な対応ができなくなる。子どもの宿題もそう。「宿題は毎日やらねばならぬもの、やらせなければならないもの」という予断を持てば、強制的でもやらせなきゃ、と、柔軟な対応が難しくなる。
「宿題をやらなくても仕方ない」と考え、予断を持たずに子どもを虚心坦懐に観察し、頭の中でいろいろ思考実験を繰り返すと、全然違うアイディアが湧いたりする。
我が家では、宿題をしろとは言わない。しなくても仕方ない、と考えている。しなかった場合は親が先生に謝ろう、と決めている。
たまたま、子どもが宿題をやる日があったとき。「親が何にも言わないのに宿題やるなんて、あんた偉いなあ」と驚くと、子どもは誇らしげ。宿題をすると親が驚くので、子どもは宿題をやることが誇らしく、楽しいものになったらしく、宿題を進んでやるようになった。それにまた親は驚いて。
「ねばならない」「べきである」は、私たちの思考を縛る。取れる選択肢がビックリするくらい狭くなる。もはや子どもに宿題をやるよう強制するか、ご褒美で釣るか、そういうことしか思いつかなくなってしまう。けれど私とYouMeさんは、思考を縛るそれらをまず捨てた。捨てるために。
宿題をしなければ、親である私たちが謝ろう、そう腹をくくった。それによって、「子どもが何も言わないのに自ら宿題をしたら、親が驚く」という構造を作り出すことができた。これは、子どもが宿題を楽しいもの、誇らしいものに感じることができる環境。それを作り出すことができた。
本来、学ぶことは楽しいこと。遊びと区別がつかないもの。けれど、強制になった途端、学びは「勉強(つとめてしいる)」になり、嫌いになる。自発的能動的な取り組みではなくなり、受動的で強制的なものに変わり、楽しくないどころか嫌で嫌で仕方ないものに変わる。
私とYouMeさんは、学ぶことと遊ぶことの区別をなくすため、「強制」を排除した。子どもが自発的能動的に学ぶことを楽しめる環境、構造を作ることに腐心した。そして自発的能動的に学んだ時、驚くようにした。すると子どもは「見て見て!」と言って、どんどん学ぶようになった。それだけのこと。
何をどれだけどう学ぶかは、子ども次第。大人が先回りしない。子どもが能動的自発的に取り組むのをただ見ているだけ。そして「見て見て!」と言われたら「あと回り」で覗き込み、おお!と驚いて見せる。すると子どもは満足し、次の工夫、挑戦、発見に進む。ただそれが連続しているだけ。
「ねばならない」「べきである」を外し、虚心坦懐に五感を通じて観察し、心に浮かんでくる仮説を待ち、その仮説に従って実験し、その結果もよく観察し、また湧いてくる仮説に従って実験し…その試行錯誤を繰り返せば、「ねばならない」「べきである」に縛られない、全然違う発想が可能。
こうした思考法を、福永氏のエピソードが教えてくれ、阪神淡路大震災が実体験として教えてくれ、塾での子どもたちの指導で痛感した。それが年を経て、言語化し始めたので、みなさんにつぶやいている。何かしら、みなさんのヒントになれば幸い。
福永氏のエピソードは、「虚心坦懐に観察する」ことの重要性を紹介するのに、これ以上よいサンプルが見つからないので、4冊ある拙著のどれでも紹介している。そのくらい、私には大きなヒントになった。今回、皆さんのお役に立つかもと思い、紹介する次第。