具体と抽象
勉強できる子は抽象的な概念を操れる、とよく言われる。一方、勉強の苦手な子は抽象的なことが苦手で、具体的なものでないと理解できない、とも。抽象化が勉強できるかどうかの分かれ目になる、とも。でも私の見るところ、抽象は、具体的体験の積み重ねで生まれるように思う。
息子はどうしたわけか、幼いころから数が大好きで、よく数えていた。ある日、私が質問したら「棒が3本も、ブロックが3個も、3は3だよ」と答えて、私はビックリした。そんなこと、私は教えたことがない。なのに、具体的なものから離れた数字の「3」という抽象概念にたどり着いていた。
足し算ができるようになって、5+3とかを計算するのに、当初は5個の点と3個の点を書いて、それを「いち、にい、さん・・・」と数えて答えを求めていた。それを飽きもせず、膨大にこなしているうち、息子はある発見をした。「5+3と3+5は順番が違っても、同じ数字の足し算なら答えはいっしょ」
これも私は教えていない。ひたすら具体的に点の数を数えて答えを求めているうち、順番が逆でも足し算の答えは常に同じ、ということを発見したらしい。そのうち、「7は4と3、5と2,6と1の足し算で作れる」ことを「発見」したりした。いつ数えても、何度数えても同じ答えになることを「発見」。
私は息子に教えないようにしていた。教えないで観察だけ続けて、息子の中で何が起きるのかを注意深く見ていた。すると、具体的な体験を膨大に積み重ねると、自然に「抽象」が生まれるようだった。「1と9,2と8,3と7,4と6,5と5を足したらいつも答えは10!」ということも「発見」。
その発見により、計算がすごく速くなった。6+5という問題も、いったん6を5と1に分解し、5と5を足して10にしてから1を足す、それによって11という答えを求めることができる、というのも「発見」していた。頭の中で「抽象」化がどんどん進み、計算速度が上がっていった。
それもこれも、数が大好きで、しょっちゅう数を数えたり足したり引いたりしていたからだと思う。教えられずとも数の法則を「発見」でき、その発見が一種の「抽象」化になっていた。具体的な体験を積み重ねて初めて「抽象」は生まれるのだろう。
育児支援室では、ボランティアの人が手品を披露してくれることがあった。興味深いことに、子どもの年齢で反応が全く異なる。2歳以下だと、さっきあったはずの棒が消えたり、逆に突然現れたりしても驚かない。「まあ、そんなことも起きるだろうさ」って感じ。
手品を不思議がるには、物はそう簡単に消えたりしないし、突如現れたりすることはない、という具体的な体験を膨大に積み重ねないと無理らしい。ある程度の年齢に達すると、子どもは手品に驚くようになる。「まさかそんなことが起きるなんて!」と。常識というのも、「抽象」の一つなのだろう。
私はこれまで、勉強の苦手な子を主に指導してきたけれど、具体的な体験が不足している、と感じることばかりだった。速度の計算ができない子は、自動車に乗ったり、電車で普通電車と特急の速さの違いを経験したことがあまりない。だから、速度=距離÷時間という関係式が、チンプンカンプン。
ところが面白いことに、(成績がメタメタなりに)高校生にもなると、速い電車に乗ったり自動車に乗ったり、という体験が蓄積しており、それから落ち着いて速度の問題に取り組むと「なんだ、そんなことか!」と理解できる。「決まった時間で行ける距離が遠いのが速いのか!」それが理解できるように。
分数のできない子は、ピザやケーキを切った体験がそもそもなかったりする。私の塾には、分数がわからない高校生が来たが、その子も体験がまるでなかった。一人っ子でおばあちゃんに甘やかされて育ったその子は、お菓子を人数で分けるという体験もしたことがなかった。
ピザやケーキに見立てた丸い紙を2つに、3つに切らせることを何度も何度も繰り返していくうち、「なんだ!丸いものを切るときは、何分の1にするにしろ、必ず真ん中に向かってハサミで切ればいいのか!」ということを「発見」した。それまで、そんな基本的なことにも気づかないほど、体験不足だった。
そのコツ(抽象)に気づいてからは、分数を難なく理解できた。私が思うに、分数が理解できないのは、体験が不足しているためだと思う。お菓子12個を4人で分けたら?とかの体験を膨大にしている子は、分数という「抽象」を難なく理解できる。でも体験がないと、それは不可能と言える。
人工知能とロボットアームを使ってモノをつかませる学習をさせる場合、うまく握れずに落とす体験も含めて、膨大な学習をさせるのだという。すると、人工知能の中で「上手く握るコツ」みたいな「抽象」が形成されていくらしい。それが形成されるには、膨大な具体的学習が必要。
最近の人工知能による翻訳は非常に優れている。これも、膨大な学習をさせた結果、人工知能の中に、英語でも日本語でもない「抽象」が形成されて、それをいろんな言葉で表現している可能性があるらしい。具体的な学習を膨大に積み重ねた結果、「抽象」は生まれるものらしい。
人工知能もそうであるならば、人間でも同様ではないか、と思う。具体的体験が欠乏しているのに、抽象を教えようとする場面を見かけることが少なくない。短い時間で遠くに行けることが「速い」のだ、という体験が不足しているのに、「速度は距離を時間で割るの!わかった?!」と言ってもわからない。
「抽象」は、どうやら実験科学に似ているところがあるらしい。実験科学では、「この条件で実験したら、何度繰り返しても同じ結果が出る」という「再現性」を大切にしている。もし同じ結果が何度やっても出てくるなら、その法則は正しい、というやりかたで、実験科学はいろんな法則を発見してきた。
抽象は、どうやら「再現性の高い法則」と表現できそう。「ネギ2本と3本を足したら5本、リンゴ2個と3個を足したら5個、ゴマ2粒と3粒を足したら5粒・・・」という膨大な体験を繰り返すことで、「どうやら具体を忘れ、数字の2と3を足すと必ず5になる、と考えて構わないみたい」を発見する。
具体を膨大に体験した結果、発見した「法則」が、「抽象」なのかも。ならば、子どもに抽象概念を理解させようと思ったら、抽象のまま覚え込ませようとするのは無理がある。抽象は具体の積み重ねでしか、その子はつかみ取れないものなのだから。
具体的体験が欠乏しているのに抽象を教えようとするのは、古い人工知能の研究に似ているのかもしれない。かつての研究では、人間が既に見つけている正解を人工知能に覚え込ませようとしていた。しかしそれだと、教えた「正解」以外の動きができず、応用力がまるでなかった。
現在の人工知能の研究は、深層学習と言われるそうだけれど、「教えない」。教えない代わりに、膨大な具体的体験を積んでもらう。成功だけでなく失敗も含めて、ともかく具体的な体験を積み上げる。するとやがて、上手くいくコツ(抽象)を発見する。この方法が、人工知能の能力を劇的に向上させた。
ならば、人間についても、抽象を教え込もうとするのではなく、「具体的体験の積み上げ」の方が効果的だと思う。具体をたくさん体験すると、自然とその子の中に「抽象」が発生する。その子の中に抽象が発生するまで、変に教えようとせず、ともかく本人の力で具体を体験させることが大切。
心理学の教科書に掲載された事例だが、非常に幼いうちに字を書いたカードを覚えさせ、「いちご」とか「いぬ」とか読めるようにさせたけれど、それらの言葉が、食べるイチゴやワンワンほえる犬などの具体的な事物とつながって理解できず、かえって言葉の発達が遅れた、という。
具体の積み重ねがない中で抽象を教えると、かえって具体との結びつきがないまま、言葉だけが宙に浮いてしまい、理解できなくなってしまうらしい。理解とは、具体的な体験と結びついたときに起きる現象。なのに、具体の積み重ねがないままに抽象を教えても、理解は発生しないのだろう。
子どもたちの血肉になるよう、知識を身に着けてほしかったら、大人は具体をたくさん体験できる環境を用意し、子ども自身が「抽象」を発見するように仕向けたほうがよいように思う。例えば、英語で習う三人称単数のエス。これ、私の時は、先生がいきなり「三人称単数のエス」と教えてきて面食らった。
いきなり抽象を教えるよりも、Heを主語にした文章「He plays...」「He sings...」「He likes...」などをたくさん並べ、別にIを主語にした「I play...」「I sing...」「I like...」をたくさん並べ、「君たち、なにか法則が見えてこないか?」と生徒に問いかけたほうがよいだろう。
そうすると、子どもたちは「2つ目の言葉にいつもエスがつく!」という法則を発見できるだろう。自分で探し、自分で発見した法則というのは忘れない。具体と結びついているし、自分で発見したという喜びがあるから。こうすれば、三人称単数のエスという抽象も、頭に入るだろう。
これまでの学校教育では、最初に法則(国語なら文法)という「抽象」を教え、それをすぐに使いこなせるようになりなさい、というパターンが定番。これ、初めて習う子にとっては意味不明。具体的体験がまるでない中で、抽象を受け止めることは、野球体験ゼロでキャッチボールしろというようなもの。
そんな中でも優等生はついていけるのはなぜだろう?それは、具体の積み重ねがすでにあるからだと思う。学校で習う前にすでにたくさんの具体的体験を積んでいるから、「ああ、あれね」となる。だから理解できる。優等生は抽象をいきなり理解できるのではなく、具体を積み上げているからだろう。
でも、小学校では優等生だったのが、中学高校になると伸び悩む子がいる。こうした子は、「言葉カード」を覚え込まされて、具体的なイチゴや犬と結び付けられなかった幼児と似たような学習をしている可能性が高い。具体的体験が不足したまま抽象を積み重ねて、本当の意味で理解ができていないのでは。
不幸にも、習ったときには具体の積み重ねが少なく、理解できなかったという子どもは多い。それでいて学校は「抽象」を覚えろ、使いこなせと急き立てる。それですっかりイヤになって、「自分は勉強が苦手だ」と思い込んでしまう子どもは非常に多い。でも。
公立中学で最下位レベルの子どもでも、年齢を重ねてあるていど具体の蓄積ができてくると、焦らず、小学校1年生の内容からやり直すと、昔は分からなかったことがわかるようになっている。分数がチンプンカンプンだった子も、友達とお菓子を分け合う体験が増えて、理解できたりする。
学習が遅れている大きな要因は、「具体の積み重ね不足」の可能性が高いと私は考えている。具体の積み重ねがないと、抽象は本人の中で発生しない。具体の積み重ねを飛び越えて抽象だけを植え付けようとしても、それは根のない植物を土に植えるようなもの。そんな植物は枯れてしまう。
抽象は、たくさんの具体という「根」に支えられた、植物の上の部分(地上部)のようなもの。具体のない中小は理解しえない。だから、子どもの学習を考える場合には、その子の中に具体はあるかどうか、なければいかにして具体を積み上げるかを優先したほうがよい。
そしてできるだけ、「抽象」は子ども自身に発見してもらうこと。発見できると、指導者も「よくぞ自分で気がついた!」と驚き、本人も「自分で法則を見つけた!」と驚き、「具体を積めばもっともっと発見できるかも」という喜びを見出す。具体を積み上げ、抽象を発見するというゲームにのめり込む。
指導者は、子どもが具体を積み重ねやすい環境を整えること。そして積み重ねた結果、抽象を「発見」したら、抽象を発見することの喜びを伝えるため、指導者も驚く。すると、子どもは抽象を発見することの楽しみを覚え、勝手に具体を積み重ね、抽象を発見するゲームを続けるようになる。
学校教育では長らく、人類がこれまでに発見してきた「正解」という名の抽象を教えてしまい、それを学習の近道だと考えてきた。しかし学習という本来の姿から亜考えると、順番が逆のように思う。具体を積み上げ、抽象は自分で発見してもらう。この順番がとても大切なように思う。
私は指導者として「驚く」ことにより、本人が具体の積み重ねから「抽象」を発見することを促す。しかしそれは、ある程度経つと不要になっていく。私が驚かなくても、子どもは、具体の積み重ねで抽象を発見するという行為がたまらなく面白いことに気がつくから。放っておいても遊ぶようになる。
いわば、私は火付け役でしかない。種火の間は気を付けないとすぐ消えてしまう。でも火の勢いが強まると、勝手に燃え続ける。私が「驚く」のは、種火をともす行為でしかない。子どもは、具体から抽象を発見する楽しみを味わってしまえば、後は勝手にそれを続け、成長し続ける。
こうした仕組みを大人が理解して子どもに接すれば、子どもは自ら学び、自ら知識を増やし、自動的自発的能動的に動き出すように思う。大人は、その最初のところをアシストするだけ。私はそう考えている。