構造的な問題は個人の努力では解決しない
富の偏在を問題視すると、「まずお前が自己の資産を貧困層に配ってからにしろ」と、個人問題に論理をそらす人が必ず出てくる。しかし構造の問題を個人の問題にそらすのは狡猾な論理展開と言える。なぜなら、たとえ個人が努力したとしても「私はしないけどね」と逃げを打って終わりになるから。
人間の動きは水のようなものだと考えている。水は必ず低きに流れようとする。流れようとする水を手のひらで抑えたり殴ったり蹴ったりしても大勢は変わらない。水は低きに流れ続ける。個人の行動だけでは構造的な問題は解決しない。構造的問題から目をそらさせる論理は狡猾と言って差し支えないだろう。
水を丸くしたり四角くしたければ、その形の器を用意したらよい。水は逃げ道がないかと探しまくることで、容器の形に丸くなり、四角くなる。構造が固まれば例外なくその器の中に収まる。為政者が心がけるべきは、水も漏らさぬ器を用意すること。
新自由主義の問題は、富裕層に都合のよいように器に穴を開けたこと。政治家にロビー活動し、富裕層に金銭が集中しやすい構造を作り出した。相続税、所得税、法人税の減税。こんな構造をそのままにしては、個人がどれだけ努力しても流れる水はせき止められない。
大切なことは、一人の人間が手で水をすくって器に戻すことではない。穴を埋めること。穴があいたままの構造問題を放置していたら、「穴のあいたバケツ」そのものになってしまう。個人の努力なんか消し飛んでしまう。
器の穴を許さない。そこから始めないと構造問題は解決しない。
器が塞がったら労働意欲は高まらない、という意見があるかもしれない。私は必ずしもそうは思わない。サッカーを見ればそれがわかる。
サッカーは手を使うことを許さない独特なスポーツ。手を使えば反則、相手にボールが渡され、不利になる。そんな不便なスポーツ願い下げだ!となりそうなものだが、実際にはサッカー人気は衰えない。手を使えないという制限が課されることで、逆に「足の無限の自由」がクローズアップされるから。
足という不器用な器官をどう駆使するかというところに無限の開拓精神が刺激され、多くの人たちがサッカーに魅了される。手を使えないという制限の中に、無限の自由を見いだせる点に魅力を感じるのだろう。制限は、その中に自由が担保されていれば必ずしも不活性化を意味しない。
それに、人間は必ずしもお金だけを行動原理にするわけではない。バブル崩壊以降、新自由主義の影響を受けて戦後昭和の日本を「悪平等」と批判する声が高まったが、戦後昭和は、思えば公平性が高くて勤労意欲も高かった。なぜだろうか。
社会に貢献しているという自負、誇りがあったからだと思う。自分の仕事が人のため、世のためになるという自信が勤労意欲になっていたように思う。金銭は、生活に苦労せずに済むものが得られていれば、そこまで大きくなくても構わない人が少なくないように思う。
金銭の高だけで意欲が決まると考えるのは、やや視野が狭いように思う。他方、やりがいだけ与えて所得を抑える「やりがい搾取」もここ二十年、ひどい有り様。これも許されないことだと思う。
お金はなるべく偏在が行き過ぎないように分配する。誰も生活に苦労せずに済むようにした上で、勤労意欲の高まる様々な仕掛けを用意して、楽しく働けるようにする。そうした構造を作ることを政治家に期待したいし、政治力のある富裕層はその邪魔をしないようにしてほしい。
賢明な富裕層は、すでに構造的な問題を解決すべきという意見に傾いている。その流れを変に捻じ曲げないで頂きたい。それが富裕層の存在を肯定する唯一の道なのだから。
自らも器の中でプレーする覚悟を。その中でファインプレーする意気込みを。富裕層もそうでない人も、「制限の中の無限の自由」を工夫する楽しみを味わうようにして頂きたい。