「無気力」からも意欲の泉は湧いてくる

その学生は、なんと言っても「無気力」だった。返事も「はい・・・」「わかりません」と、気の抜けた感じ。指導を私に託した先生によると、卒論を書く時期になると大学に来なくなり、もう二回も卒業し損ねているという。
こりゃ、無理やりやらせても言ったことの半分もできないのは目に見えていた。

教えても「はい・・・」と生返事で、わかったのかどうかもわからない。旧帝大生だから理解力はあるはずだが、とにかく気力がない。意欲がないことには何を指導しても無駄だろう。
そこで、以前から「こうしたら意欲が高まるかもしれない」と感じていた仮説を試してみることにした。

とある実験結果を示して、「何か気づいたことがあったら教えて」と言った。すると学生は案の定「わかりません」という。「わからなくて当然、だって僕も初めての現象だからわからん。なので、互いに気づいたことをどんどん言い合うようにしよう」

「たとえばここ、どうなってる?」と、注目点を絞ってそれがどうなってるか答えてもらう。見たらすぐわかるようなことを言ってもらい、なんだこんな程度のことでいいのか、と安心してもらう。
「うん、そうだね、他には?」と、気づきを話してもらう。今度は水を向けなくても、少しずつ答えてくれる。

時々、「あ、それ、よく気がついたね」と驚く。すると、驚かすことができたのがちょっと嬉しいのか、少し注意深く観察し、気づいたことをどんどん言ってくれるようになる。私は「ほう、ほう」と、観察力にちょっと驚くような感じで反応し、なるべく学生に指摘してもらうようにした。

「さあ、たくさんの特徴が見えてきた。目標はこういうことしたいのだけど、だとすると、今度やる実験はどこを改良したらよいだろう?」と、仮説を立ててもらう。いきなり全部は無理だから、スモールステップで。「さっき、君の指摘でこれとこれがあるよね。この二つから何が言えるだろうか?」

学生の指摘からこれと思われるものを示して、ヒントをほのめかすが、必ず問う。学生に答えてもらう。その答えに軽く驚く。すると、仮説も次第に恐れずに話すようになっていった。「よし、じゃあ、君の仮説通りになるか、試してみて」。

私は思考のアシストはするが、必ず学生に問い、学生に答えてもらってるから、実験の仮説、段取り、注意点もすべて学生の口から出たもの。だから、「自分が考えた」感が出るらしい。本人もちょっとどうなるのか気になる様子で、実験を始めた。

そんなことを1ヶ月も続けるうちに、私があまり問わなくても、実験結果から気づいたことを列挙し、そこから考えられる仮説を述べ、「だから次はこんな実験をしてみたいんですけど」と言い出したので、私は嬉しくなって「いいねえ!危険さえなければ遊びの実験、どんどんやっていいよ」

3ヶ月もすると、実験結果を受けて次に必要な実験を思いつき、それを自発的に実験するようになった。私はその着眼点に驚き、ゴーサインを出すだけ。卒業どころか、大学院に進み、修士論文もしっかり書いて、専門を生かした就職をした。

だいぶ話せるようになった頃、なぜ卒論の時期が近づくと不登校になったのか聞いてみた。「学生の間は何にでもなれる可能性がある。けれど就職したら可能性はなくなり、社会の歯車の一つになり、人生が決まってしまう。そう思うと気が重くなって気力がなくなった」と教えてくれた。

私はしばらく考えて、次のように答えた。「鉄鉱石はトンカチにもノコギリにもなれる可能性のカタマリ。けれどクギも打てず、木も切れない。そのうちサビて粉々になってしまう。
いちどトンカチになったものはもうノコギリやクギになる可能性は消えてしまう。でも」

「とても使い勝手のよいトンカチになれば、ありとあらゆる現場に持って行きたくなる。その建築現場はお医者さんの家かもしれないし、女優の家かもしれないし、伝統建築かもしれない。トンカチの道を極めたら、かえって無限に世界が広がることもあるかもね」

自分のしたい仕事がわからない、と学生が言うので、次のような話を。「僕もわからんかったなあ。働いてみるまではわからんよね。ただ、働き始めてから面白そうなこと見つかったら「こんなことしたい」って言ってみることだね。何年か経つと「あいつ、そういえば」って思い出して声をかけてくれたり」

「企業へのインターンの制度広げたいって言ってた学生、同じ年頃で、そんなの広がるわけないと思ってたら、今ではすっかり普及してる。国会議員になりたい、と言ってた学生三人とも一度は国会議員になってる。やりたいことを口にし続けると、いつかチャンスがめぐってくるよ」

その言葉が利いたのかどうか。それまでやったことのない就職活動を始め、研究に関連する企業に就職が決まった。超氷河期だったし、卒業を二度も逃した履歴があるから心配だったが、よかった。

その学生が完全なる無気力だったおかげでそれまで試したことがない指導法、つまり、なるべく「教えない」指導法を試す気になった。教えても無気力のあまり動かないわけだから、まずは気力の再構築から始める必要があった。

その学生の指導を通して気づかせてもらったことは、
・アシストやヒントがあるとはいえ、自分で考えたアイデアは実行してみたいという「意欲」が湧く
・気づきやアイデアに驚く人間がいると、驚かすことができたことに嬉しくなり、「意欲」が湧く
ということ。

どうやら、人間は能動的に動いた結果、何かしら事態が変化したという感覚(能動感)があると、意欲が湧くようにできているらしい。私は、なるべく気づきやアイデアは本人に言わせ、それを刺激促進するために「驚く」ようにした。それが能動感を高め、意欲を取り戻したのだろうと考えている。

・教えるのではなく、「教えない」部分をなるべく多くし、その部分を本人の気づきやアイデアで埋める。
・一つ一つに軽く驚き、時に本当に想定しなかった答えに大いに驚くと、能動的になる。
・能動的に動くと事態が変化した、という能動感が味わえると、意欲はコンコンと湧く。
ことに気がついた。

ちょっと追記。
その後、こうした指導法はユマニチュードそっくりだと気がついた。ユマニチュードは、介護者が語りかけたり触れたりして刺激を伝えるものの、本人が反応するのを待つ。反応があると驚き、喜ぶ。すると高齢者も次第に能動的に動こうとする。その繰り返しで、意欲を取り戻していく。

能動的に動くのを待つのは時間がかかり、教える側としてはつきあってられない、という気持ちはわかる。しかし駆け足で教えることで子どもや学生、部下は能動感が得られず、やらされ感(受動感)ばかりが強くなり、やがて無気力になったり、自暴自棄になったりするのかもしれない。

指導する側はむしろ受動的になり、学生や子ども、部下が能動的になれる環境をデザインし、驚くことで能動的に動くことを刺激する。そうすることで、指導される側が「能動感」を味わえるようにすることが大切なのだろう。

本人が能動的に動いたことに驚き、面白がることができれば、教えなくても子どもや部下は勝手に学びだし、成長する。シンプルな原則だけど、こうした「驚育」ができたら、様々なことが好転するように思う。特に工夫・努力・苦労に驚き、面白がるなら、意欲は湧き、学習スキルも向上するようだ。

もう一つ追記。この学生、仕事で自己実現しなきゃいけない、という気持ちが強かったようで。だからよけいに就職で失敗したくない、と不安になったらしい。そこで次のように話した。
「別にやりたいことは仕事以外でもいいんでない?僕は仕事を、生活するためのアルバイトだと思ってるよ」

「僕の本当にやりたいことは、こうした方が楽しく生きられるんじゃないか、こうした方が世の中うまく回るんじゃないか、という意見発信。だけどそれでは誰もお金をくれない。だからアルバイトで研究してる。もちろん仕事をおそろかにしない。ただ、本当にやりたいことは仕事と一致しなくてよいと思う」

仕事を一生の重大事と思わず、もっと気楽に捉えたらよいのだと思う。そう伝えると、学生さんも気が楽になったらしい。仕事をあまり過大に考えなくてよいのでは?と、私なんかは考える。その方が思考がのびのびして、仕事にもかえってよい効果があるようだし。

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