言語化とは、言葉を道具として使い倒すこと
言語化する上で気をつけていることがある。自分の紡いだ言葉に囚われないこと。これは一見、矛盾しているように思われるかもしれない。物事を把握するために言葉を紡いでいるのだから、言葉を重視しているように思える。でも、言葉に縛られたら言語化はできなくなる。
どういうことか?
自分は強者である、と言語化したとしよう。すると、強者であるフリを始めるクセが、人間にはあるらしい。自分の紡いだ言葉通りの存在になろうとしてしまう。本当は不安なはずなのにそんな不安は毛ほども感じていないフリをしたり。いろいろ取り繕うようになって、真実の自分が見えなくなる。
これは弱者だと自分をみなしたときも同じ。「自分は弱者なのだからこれくらい得をしても構わない」「自分は弱者なのだから、いくら自分が悪いことをしたとしてもそれを責めるのは悪人」という論理に逃げ込もうとしたり。自分の紡いだ言葉を盾にして、鎧にして、その中に立てこもろうとしてしまう。
私は、言葉とは「仮説」でしかないと考えている。とりあえずこんな風に表現すると現実に近いんじゃないか、という、とりあえずの仮説。もっと現実に肉薄できる言葉がみつかったらあっさり取り換えてしまうような、とりあえずの存在。それが言葉なのだと思う。だから言語化とは。
「とりあえず当面はこう表現しておく」という行為でしかない。もっと適切な言葉が見つかれば、それにどんどん置き換える。私が言語化するとき、言葉に縛られないように気をつけているのは、そのため。それは仮の表現でしかない、と考えている。
近年、発達障害という言葉をよく聞くようになった。で、自己分析して私は「○○という発達障害であることが分かりました」という話もよく聞くようになった。ところが、その症名の中に「たてこもる」人も少なくないなあ、と感じることがある。
発達障害という言葉は、「りんご」程度の意味しかないと私は考えている。リンゴはリンゴかも知れないが、リンゴの中には大きいの小さいの、赤いの青いの、酸っぱいの甘いの、固いの柔らかいの、シャキッとした歯ごたえと粉っぽいの、いろんなリンゴがある。リンゴという言葉はまだ解像度が悪い。
そんな解像度の悪い言葉なのに、「りんご」という言葉に引きずられ、「赤くて甘酸っぱい」というステレオタイプなイメージでとらえて、目の前のリンゴがどんな味でどんな食感でどんな模様なのかなどを観察するのをやめてしまうことがある。もうリンゴと分かったからそれでいいや、みたいに。
言語化は、言葉に縛られたとたんに停止してしまう。言葉に紡げたことに満足した途端、止まってしまう。言語化は、「とりあえずリンゴみたいだけれど、梨かもしれないから仮置きで表現しとく」くらいにとらえ、観察を続け、言葉に紡ぐ作業を続ける必要がある。
言葉を紡いでも紡いでも、その言葉に囚われない。「仮説」でしかない、と捉える。そして、仮置きの言葉をたくさん紡ぎ、時には「もっと肉薄できる言葉が見つかった」ならそれに置き換えることもしながら、現実の輪郭をなぞる。それが大切なことのように思う。
日本には「ことだま(言霊)」という言葉がある。言葉そのものに生命が宿ってしまう、ということなのだろうけれど。この言霊信仰があるためか、言葉に引きずられやすい。言葉に引きずられて目の前の現実が見えなくなり、現実を見ようとしなくなる。言葉遊びが始まってしまう。
言霊信仰は、もしかしたら言葉をもてあそんでいるのかもしれない、と感じることがある。言葉を重んじることで、かえって言葉を軽くしてしまっているというか。言葉というもののすばらしさをかえってダメにしているというか。
言葉というのは、迷路でさまようときの目印のようなものかもしれない。ここで右に曲がったということがわかるように置いておく目印。目印は何でも構わない。どう曲がったかがわかりさえすれば。そういう意味では、目印そのものは軽い。でも、目印が果たす「役割」は重い。
言語化も、言葉のとらえ方はそうした「目印」に近いのかもしれない。あとでもっと肉薄できる言葉が見つかったら置き換えてしまうようなものだから、言葉自体は軽い。でも、仮置きしたその「役割」は重い。言葉を重視せず、その言葉の果たす役割を重視するのが、言語化なのかも。
時折、ツイッターでも、言葉の表現とか定義について指摘されることがある。私はそこ、極端な話、どうでもいいと考えている。言葉は、もっと適切なものが見つかれば置き換えてしまってよいと考えている。しかし、当座、表現したいものに肉薄するのに「仮置き」した、その「役割」は重い。
同じ「役割」を果たせるなら、別に他の言葉でも構わない。もっと適切に役割を果たせるなら、別の言葉に置き換えるのをためらわない。だから、言葉の定義とか問われても、「そこ、別に重要なところじゃない」というのが私の考え。
「甘えの構造」で、「甘え」という現象を発見、言語化しようとした土居健郎氏は、西洋には「甘え」に相当する言葉がなくて、説明に苦労したという。西洋人は何とか理解しようとして「私たちが聖母マリアに抱くような気持ちに近いのだろうか?」と尋ねたという。
この西洋人の姿勢って、とても大切だと思う。土井氏が口にした「甘え」という言葉そのものを理解しようとしたのではなく、その言葉が指す現象を理解しようとしている、その姿勢。言語化とは、言葉はさておいて、その現象を一緒につかもうとする行為。言語は道具であって、目的ではない。
本来、自分が感じている現象や認識は、他人と共有することはできない。正確に言葉に紡ぐのも困難。だから、言葉は、「もしかして、私が今感じているコレのこと?」と、感覚につけているラベルでしかない。大事なのはラベルを理解することではなく、ラベルが指しているその感覚。
私が言語化しようというときは、言葉を生み出そうとしているのではなく、表現したいそれの輪郭をつかむことが目的。その輪郭をつかむために、それに肉薄できる言葉を探し、とりあえず仮置きする。仮置きの言葉が増えると、表現したいそれの輪郭がだんだん見えてくる。そうすると。
赤の他人とも「それ」を共感する可能性が高まっていく。「あ、コレのことをあなたは言いたかったのか」と。言葉に囚われるのではなく、言葉たちが示してくれたその輪郭から、輪郭の内側にある「それ」をともに感じ取ることができる。その状態に達するための作業が、言語化。
だから、言語化は、言葉に紡ぐことが目的ではない。言葉という道具に過ぎないものを、表現したい何かに肉薄してはそこに仮置きし、仮置きを重ねることで輪郭を浮き彫りにし、その輪郭の中のもの、感覚を、他の人と共有しようという行為。言語の向こう側にあるものを共有しようという行為。
言葉の向こう側にあるものを共有しよう、というのが目的なのだから、言語化は、言葉という道具でしかないものに囚われてはむしろダメ。道具が道具として生きるには、道具を目的にしちゃダメ。道具は道具として扱わなくちゃ。それが言葉を大切にする、ということでもあるのだと思う。
言霊信仰は、いわば大工さんの仕事道具であるトンカチをあがめ、その由来や神秘性を熱く語り、神棚にあげて拝むような行為のような気がする。本当にトンカチを大切にするというのは、現場に持っていって使い倒すことだと私は思う。
そして、ノコギリを使うべき場面ではトンカチを脇に置き、カンナを使うべき時にはやはりトンカチを別の場所に置き、いよいよクギを打たねばというときにトンカチを利用する。本当にトンカチを大切にするというのは、適した場面で使用することを言うのだろう。これは言葉も同じだと思う。
道具に過ぎないものを神秘化するのはよくない。道具は道具として使い倒すのが道具に対する礼儀だと思う。言語化は、言葉に囚われず、言葉を道具として使い倒すことだと思う。使うべきではない場面では言葉をひっこめるのも大切な姿勢。
だから私は、言語化という作業を重視しているけれど、だからこそ言葉は「道具」でしかなく、道具としての「役割」は重視しているが、言葉にこだわるつもりはない。言語化には、そうした姿勢が重要なのではないか、と考えている。