大人は「驚く側」、幼稚な人は「驚かす側」

大人と子どもの差は何だろう?と、ある人から聞かれた。「少年のような心をいつまでも持っている」というのは、ほめ言葉だったりする。でも他方、「あいつは幼稚だ」と悪口叩かれたりする。幼稚な心を「少年のような心」とはいわないだろう。ややこしい。いったい何が違うのだろう?

私が思うに、大人は「驚く側」、子ども、あるいは幼稚な人は「驚かしたい側」に分けることができるのかな、という気がする。
幼児は「ねえ、見て見て。ぼく、こんなこともできるよ!」と、昨日までできなかったことが今日できるようになったのを見せて、大人を驚かそうとする。

これは「幼稚な大人」も同じような気がする。知識が豊富にあるところを見せ、社会的地位が高いことを誇り、学歴がすごいところを自慢し、お金持ちであることを見せびらかすことで、相手がのけぞり、驚くところを見たい。つまり、「驚かしたい」を隠せないのが、幼稚さなのではないか。

他方、大人とは、自分のことで人を驚かそうという欲からは解脱して、むしろ自分が「驚く側」に立つことで、人を育てようとする人のことかな、という気がする。幼児が「ねえ、見て見て!」とやったとき、「ほう、そんなこともできるようになったの!」と驚いて見せる。すると子どもは誇らしげ。

部下が「この案件、なんとかモノにしました!」と報告してきたら、「よくやり遂げたなあ!」と驚いて見せる。こうして、「驚く側」に立つことで、「驚かしたい側」の人たちの意欲を引き出し、もっと成長しよう、もっと工夫しよう、と努力するのを促そうとしているように思う。

他方、「驚く側」の人は、「少年のような心」を持っている、とも評されやすい。とても小さな出来事であっても「へえ、そんなことが起きるんだ!」と目を輝かせて、好奇心を隠さない。「驚く側」に立つことは、身近な現象にもよく驚いて見せるので、それがあたかも何も知らない子どもに見えるのかも。

つまり、「少年のような心の持ち主の大人」は「驚く側」の人であり、「大人のくせに幼稚な人」は「驚かしたい側」にいつまでもとどまっている人のことのような気がする。そして「驚かしたい側」の人は、大人になっても結構いる。お金持ちになったり社会的成功を収めて周囲を驚かしたい、と企む。

でもこうした行動って、幼児の「ねえ、見て見て!僕ってすごいでしょ!」というのと変わりはない。「驚かしたい側」は、幼児のそうした心象をそのまま大人になっても持ってしまっているということなのだと思う。こうした人は、自分は成長し、成功し続けるかもしれない。けれど。

他人を、周囲を育てることはあまりできない。「驚く側」に立たないから。もし上司が部下と一緒にゴルフに行って、自分の腕を自慢したら、部下は「俺の方がうまいけど、それを見せちまうとへそを曲げそうだな」と思って、「課長にはかないません」とか言って、実力を示さなくなるだろう。

「驚かしたい側」にいつまでもいる人は、自分のことで他人を驚かしたいのであって、他人のパフォーマンスで驚きたくない。むしろ、自分が驚く側になると、能力で負けたことを認めるような気分になる。だから驚く側に立ちたくない。常に驚かす側に立ちたいのかもしれない。

けれど、それでは人は育たない。「驚かしたい側」の人の周りには、「はいはい、すごいですね」と調子を合わせる人だけ残る。それに、「驚かしたい側」の人の能力を超えるパフォーマンスを見せたら恨まれるから、能力を発揮しようとしない。だから、周囲が育たなくなってしまう。

他方、「俺は十分、先輩から育ててもらった。次は人を育てる番だ。つまり、「驚く側」にならなくてはな」と考える人は、自分の能力や成果で他人を驚かそうとは考えなくなり、逆に部下のパフォーマンスに驚くようにする。そうすることで部下の意欲は高まり、成長することを知っているから。

こう考えてくると、大人といえる人は「驚く側」に立つ人であり、大人になっても幼稚な人は「驚かしたい側」にいつまでもとどまっている人、と言えるように思う。「驚かしたい側」にいつまでも立つ人は、幼稚性を捨てることができないでいるのかもしれない。

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