DXを「マニュアル不要」という設計思想に
日本のDX(デジタルトランスフォーメーション)って、どえらく(D)ダメ(X)にすることかいな、と感じることかある。デジタル化する前のほうが便利で、デジタル化したとたん複雑で操作が分からなくなってしまうケースが非常に多い。単にデジタル化しただけで、ごっつ不便。
DXが本来目指したのは、スマホのような操作性だと思う。スマホは驚くべきことに幼児でも触っているうちに操作方法が分かってしまう。「こうしたいんだけど、だとしたら指をこう動かしたらいいのかな?」と直感的にしてしまう動作でじっさいできてしまう。高齢者も比較的操作が容易。
現在のスマホの形を作ったのは、やはりiPhoneだろう。iPhoneをはじめとするスマホは、それまでの家電と全く異なる特徴が一つある。それは説明書がないこと。
私が初めてスマホやタブレットを入手した時に驚いたのは、こうした高額な家電にはつきものの分厚い説明書が一切なかったこと。
従来の家電は分厚い説明書が添付されてるのが常で、実際、説明書なしではどこから手をつけたらよいのか皆目見当がつかないのが普通だった。ところがスマホは「とりあえずこのスイッチを押すのか・・・?」それで電源が入ったら、あれよあれよと言う間に設定を終えるように仕上がっている。
つまり、スマホの画期的なのは、「説明書なしにいかに操作方法を見当つけられるようにするか」という設計思想で貫かれている。アプリも、人気のものは「ここ押したらこうなるのか」ということが、説明を読まなくても見当がつくようにできている。人間のやりそうなことに寄り添う操作法にデザイン。
ところが日本のDXは「なんでやねん」と思うこと多々。「いや直感的にここを押すなんて思いもよらんよ?」という操作性。誰か知ってる人間に聞かないとその操作をするとは気づかない設計。人間の直感に逆らう設計思想。とにかくやりにくくて仕方ない。マニュアルなしには動かせない。
日本のDXは、スマホの設計思想に見習う必要があるように思う。それは、マニュアルを不要にするという設計思想。決してデジタル化する、という意味ではない。いくらデジタル化しても、マニュアル読まなくては操作できないという時点で不便極まりない。マニュアルなしに操作できてしまう設計が重要。
マニュアルなしで操作できるようにするには、「作り込み」が必要。この操作はややこしいからもう少し簡便にできないか?ということに気づいたら、設計を見直すという作り込み。なのに日本はデジタル化を急ぐあまり、出来の悪いアプリを作って、入力の面倒な、マニュアルなしでは操作の分からないものに。
マニュアルなしで操作できるようでなければデジタル化の意味はほぼない。むしろ不便にするのと同義語になる。設計思想を「マニュアルを不要にする」というところに置き直すべけではないかと思う。