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今も心にあの一冊「Drクマひげ」史村翔原作・ながやす巧作画

二十歳越えて人と目を合わせられず100%劣等感。勝手な論理で「堂々とした大人」になるには多く本を読むしか無いと考えました。世界を理解すべく振り子のように極論と極論を往復し、その振幅の中で中立や普遍に収束したいと願いました。
無理に難解な本や興味が無い本も開きました。それぞれの書物の世界はこの下宿では地続きでした。人間の異常性や奔放な性、精神病理から日常を浮き彫りにする文章群に軽々と振り回されました。「高丘親王航海記」も「マルテの手記」も、村上龍の極彩色の如き性描写も、「家畜人ヤプー」の主従とヒトとモノの位相も、自分を試されているようで、生理的に拒絶したくなる感情に従うか正面突破するか、悩みました。その答えを求め地滑り的に開いた「方法序説」や「純粋理性批判」はより自己問答へ誘いました。徐々に「尖る自分に酔う」に陥りました。下宿部屋には古本が積み上がり、何か取り繕う素直じゃない自分も積み上がりました。小林秀雄の「本居宣長」に入り込み、学究的思考を深めなくてはならないと何だか勝手に思いつつ、女子と話す、という人生の命題に向けてグラビアの女性と目を合わせる練習も続けていました。軽度錯乱状態、きっとそうでした。
ある日うどん店に置いてある漫画「Drクマひげ」に心奪われこっこっと軽く嗚咽し丼物を食べられなくなりました。ぼ、僕は・・・わかりやすい人情話がす、好きです・・・心に告白し、素直な自分をギュンギュン引き出すこの作品に驚愕し感情がタプタプになっていました。
うどん屋のおばさんが「大丈夫?」と声をかけてくれました。
僕は「な、泣いていいですか。」
おばさんはにっこりして
「よかよ。」
心は決壊!
こ、このおばさんみたいな大人になりたい!
本まみれの自己陶酔者は福岡六本松長州屋のおばさんとDrクマひげに引き揚げられました。堂々とした大人になってもならなくてもどうでもいい。いちいち面倒な二十歳なのでした。 

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