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濁浪清風 第57回「宿業」について⑤

 「本能」という言葉は恐らく、生命存在が生まれてくるときすでにその命のなかに与えられている能力に、名を与えたものであろう。教えられないのに、ちゃんと親からその能力を受け継いでいるから、生き延びていけるのである。教育されて身に付けていく能力と異なり、生物に本来与えられている能力ということである。それぞれ、その種に生まれ落ちれば、当たり前のように親と同じ能力が与えられる。この能力も、しかし生まれてしばらくの間に使用しないと、開花しなくなることもある。例えば、動物のほとんどは、眼があり、見る能力がある。しかし、生まれて光がない状態をしばらく与えられると視力は機能しなくなってしまうのだそうである。音を聞く能力についても同じことらしい。

 人間には、理性の能力が付与されるようになって、この力が生きるために大きな部分を果たすようになったことから、生物として本来与えられてきた本能が、次第に弱まり、それをまた理性が代替して生き延びてきた、と言われる。つまり、本来の能力といえども、使用しなければ、衰えたり、ほとんど無くなったりするということである。

 しかし、生きるということには、本来その生きるための力が、先祖代々、その身のなかに伝承されているのである。その本能的能力と、それを持続する身体を支える環境がある。その全体を意識の内容とするようなはたらきに「阿頼耶識(あらやしき)」という名前が与えられた。だから、阿頼耶識とは「不可知(ふかち)の執受(しゅうじゅ)と処(しょ)と了(りょう)」であるとされる。

 「不可知の執受」とは、「有根身(うこんじん)と種子(しゅうじ)」であるとされていて、「処」とは環境のことである。「了」とは意識作用ということである。「有根身」とは、さまざまな感覚作用をする器官を総合して生きている身ということである。「種子」とは、生きる可能性を含め、あらゆる意識作用の能力のことである。この阿頼耶識に与えられている生命力は本能的であるから、宿業(しゅくごう)の所与であり、業報(ごうほう)の異熟(いじゅく)たる識だと言われるのであろう。

 そういう生命力の深みと宗教的要求とが密接に結びついているから、宗教的要求が「人心の至奥(しおう)より出(い)ずる至盛(しじょう)の要求」(清沢満之)であるということなのであろう。「帰命(きみょう)」とは「本願招喚(しょうかん)の勅命」であると親鸞が言うのも、真実の喚(よ)びかけに帰せずにおれないということが、本来の生存の根源から出てくるいわば本能的な命令なのだ、ということを表しているのであると思う。

(2008年2月1日)