濁浪清風 第33回「場について」③
場(環境)と主体とは、本来生きている事実においては、深い因縁関係によって分かちがたいものである(2006年1月〈場について2〉)、と述べた。むしろ内に自己を感じ、外に環境を感ずることが、生命の事実だというほうが、生きていることそれ自身に近いのであろう。にもかかわらず、自己は自己として内にあり、環境は外にそれ自身としてある、と私たちは考える。だから、そういうレベルの意識と、生きていることそれ自身の意識とを分けて、前者は普通の意識(第六意識、いわゆる理性作用)とし、その深みにいのちそれ自体を引き受けているような意識を「阿頼耶識(あらやしき)」として明らかにしたのが、唯識思想なのである。
「恒転如暴流(恒〈つね〉に転ずること暴流〈ぼうる〉の如し)」(『唯識三十頌』〈ゆいしきさんじゅうじゅ〉)と阿頼耶識のはたらきを表現する。「恒転」とは、いつも変化しつづけて一瞬たりとも止まることがない、ということである。なるほど私たちの生命とは、時を感じつつ、念々に生滅しているものである。意識的に時を止めたいということが起こっても、誰も時を止めるということはできない。時が移ることと、いのちが成長し、成熟し、老年に向かっていくことは、いのちが生きていることの必然的な内容である。それを引き受けているものを、「主体」として認めるのである。私たちが考える主体は、たとえ時間は移ろっても自分自身は変わらないぞ、と主張したいのである。でも、そうはいかない。残念ながら、どんな人も必ず時の移ろいを自己に引き受けていかざるをえない。黙ってそういう時の移ろいを自己に引き受けているものを、「阿頼耶識」というのである。この意識は、一切の経験を黙って引き受けて自己自身としていくのである。自己が出合う事実を、好き嫌いを選ばないで、すべて自己自身としているのである。「摂(せっ)して自体となし、安危(あんき)を同ずる」(『成唯識論』〈じょうゆいしきろん〉)とも言われる。自己の生きている事実に与えられてくるすべての事件を「摂する」。一切を引き受けて自分自身であるとして歩んでいく。そこには「安全」な場合ばかりでなく、「危険」極まりないこともあろう。そういう成り行きを自己自身としているはたらきがあるではないか、というのである。
私たちを支え、私たちが「良いの、悪いの」と言っている人生の事実を、黙って引き受けてくれているものがあると気づきなさい、ということなのであろう。
(2006年2月)