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濁浪清風 第34回「場について」④

 場といえば、生物の棲(す)み分けのテリトリーのことが思い起こされる。それぞれの生き物には、その生存を支えるだけの食べ物を確保するための領域が必要である。そのために、森や林に自分の臭いをこすりつけたりしてテリトリーを守っているのである。この場合のテリトリーとは、動物の個体が生存するための領域をもつことを表すのだが、個体とそのテリトリーとは、生活空間として分かちがたいものである。その領域がその個体を支え、その生存を成立させ、生存の事実を証明しているわけである。かくして、自然の動物の世界には、長い時間や自然環境の転変に対応しつつ、それぞれのテリトリーが連綿として持続しているのである。

 しかし、ことが人間の場合には、この生存領域の基準が単純ではなくなる。もちろん人間も生命体であるからには、それを維持する基礎的な食料が確保される必要があるのは当然だが、人間の場合はそれのみではない。現在の状況のみに対応し、反応する動物界に対して、人間は過去に煩(わずら)い、未来を心配して、現在にはさまざまな煩悩を起こしているということがあるからである。重層的な欲望の対象として、自己の領域を拡大しようと思い続けていると言っても良いのかもしれない。そして共同生活をする人間には、自然界の動物のようなテリトリーは判然とする必要がない、とも言えよう。しかし、個人の生活空間には、その個人との対応関係として、テリトリーに相当するような環境との密接な関わりがある。

 近代的な自我は、環境からあたかも自立して存在するとし、自我にとって外在的なものとして、歴史や社会や自然環境を見るような発想がある。けれども人間といえども、自然界の大いなる不可思議な力から生み出され、いわば母体とも言える環境と、不即不離(ふそくふり)の関わりにおいて生存しているのである。それは、和辻哲郎の『風土』によく表されているところである。私たちの存在は、歴史や風土や、さらには家族関係や友人関係によって作り出され、支えられているのである。それから離れた個体などというものは、抽象的なものにすぎない。生きている実存は、環境(広い意味の環境であり、歴史や風土や人間関係をも包んでいる)を内容として成立しているのである。

 翻(ひるがえ)って、現在の私たちの環境を静かに観察してみよう。私たちが、便利で豊かな空間であるように作り変えた都市環境が、いつの間にか、実は私たち自身の内面になっているのである。それは、本来与えられている生存能力としての感覚や知恵を、便利な道具で補うことによって、自分のもっている能力を使用する機会を失っている、という一面があるということである。機械や器具で調べたデータにのみ依存して、生きている自分の直覚などはすっかり、ぼろ切れのように衰えてしまっているということなのではないか。

(2006年3月)