『自分で考えることの困難さ』コルクラボマンガ専科3期 山田ズーニー氏講義①の感想 その1

昨日受けた山田ズーニー先生の授業は、自分の根本問題を教えられた気がした。それは一言で言えば「自分で考えていない」である。あるいは「自分で責任を持って考えることを放棄している」である。

私は長い間、自分の意見が無いように感じていた。例えば大学のゼミで、飲み会で、多くの人と話をしてきたが、皆は自分の意見があって話しているのに、自分には何も意見がない空っぽの人間のように感じていた。何も自分の意見が出せない。考えてないから俺はダメなんだ、物事を知らないから俺はダメなんだ。考えるトレーニングをしてこなかったからな。とそこで腐っていた。かといって具体的に考えるとは何かを考えることも放棄していたのでそこは自分の怠惰なところだと思うし、深刻にその事を考えてこなかったという所も結局のんびり生きてこれたのだと思う。でも、他の人と話す時に自分だけ何も意見が無いように感じてそれが自分の生きづらさにつながっていたのは事実だ。

さて、昨日その考えていないの正体が少しわかった。ズーニー先生は授業の冒頭でこのようにおっしゃられた。人が話す時には論拠と意見が必要であると。論拠というのは例えば具体的事実である。例で出されたのがズーニー先生の姪っ子が社会福祉士に成りたいと、福祉の学校の志望動機の書類を書いたときの文章であった。その中で姪っ子さんは、「私はかつて老人保健施設でボランティアをして素晴らしい体験をした、だから社会福祉士を目指している」というような文を書いた。(すみません、大分はしょってますし、記憶に残っている範囲で書いていて正確な描写ではありません)この文には論拠[老人保健施設で素晴らしい経験をした]と意見[だから私は社会福祉士に成りたい]はある。だが、何か響いてこない。今一つ熱意が伝わる文章になっていない。それはなぜかというと、この文章には論拠、つまり事実と意見だけがある。しかし、論拠から意見に行くにはそこにもう一つ大切な鍵がある。それは「考察」である。つまり、論拠(事実)からどう自分は考察し、そのような意見を持つのかを書いていある文が説得力を持つのである。事実からいきなり意見に飛ぶのは浅いし、本人が考えたことにならない。たしかにそうだ。これではまるで「〇〇さんが××という国は危険な国だと言っていた、だから私は××は危険な国だと思う」というような、非常に浅はかな曰思考であり、何も説得力を持たないし、〇〇さんの意見の焼き直しでしかない。全く魅力がない。しかし私はこれをよくやってしまっていた。

これを私は「意見の横流し」と名づけて覚えようと思う。例えば、先日知り合いとのディスカッションで課題を早めに片づけたいという話になった。みんな、課題に手を付けるのが遅くてダメだなぁということを言い合っていた。そこで私は「でもある本には『課題をギリギリまで先送りする人の方が創造性がある』と書いてあったよ。だから課題を先送りしてもいいんだよ。」と話した。これで私は何かを言ったつもりになっていた。しかしこの文章にも考察がない。典型的な意見の横流しである。だから、こういうことを言う人には魅力を感じないのは当たり前である。

だから、考察があるかどうかがその人の文章が魅力的になるかどうかの分かれ目なのである。「なぜ」を考えるのが大事である。姪っ子さんの文章で言えば「老人ホームで感動」したのはなぜなのか、それがなぜ自分が社会福祉士に成りたいにつながるのか?を考えてそこをこそ深堀して表現しなければならないのである。書く前に自分の頭で考える事で魅力的な文章に成るのだ。

では、論拠→考察→意見の部分の考察をどのように行うのか?これがまた問題で、この訓練自体を私は怠ってきた。(ちなみになぜそうなったのかを考えるのも興味深い課題である。これは教育学に結びつきそうな問題である。)

考える道具は「問い」であるとズーニー先生は教えてくれた。自問自答を繰り返す作業、考える事とは自分に問うことだという。大小さまざまな問いで自分に問うのだ。なぜ?という問いは大きすぎるのでそれは後に取っておいてとりあえず、小さな問いに分けてどんどんしていくのが良い。

この事もよく分かる。私は仏教系の大学院の修士課程に行っていたのだがその時に、研究テーマが決まらなくて悩んだ。今考えると研究テーマが大きすぎたのだ。私は浄土とは何か?を考えたかった。しかしこれではテーマが大きすぎてアプローチできない。例えばもっと細かく問を分けて、仏教では場所をどのように捉えてきたか?浄土について書かれた書物にはどんなものがあるか?金子大栄は浄土をどうとらえたか?浄土と天国はどう違うか?浄土の漢字の意味は何か?(これでも大きすぎる問いかもしれないが)とばらばらにして細かな問いにしていけばまだ近づく道があったと思う。結局修士論文は何を書いているのか自分でも分からない漠然としたもの、それこそ先人の言葉を切り貼りしたようなものになってしまった。

私が考えられていないと感じていたのは間違いではなく、論拠と意見だけがあって、考察の部分をさぼっていたのだ。だからこれからはこの考察の部分をしていく事を常に意識していきたい。そしてその方法は、自分に問う事。問いを繰り返すこと。上手く問えない時は問いを細かくしていって、小さな問いを積み重ねる事である。



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