新聞記事に、非常に考えさせられるものがあったのでメモしておきたい。
一匹の鶏に与えられたスペースはわずかB5用紙1枚程度であり、ぎちぎちのケージの中でその中で一生を終える。人間が卵を食べる為だけに生み出され、一生を終えていく。職員一人が管理する鶏の数が10万羽ということにも何だか恐ろしいものを感じる。もう、一匹一匹を見るということがとうてい出来ない数字である…。
こうした鳥の命をどう考えたらいいのだろうか。われわれの社会は命をこのように扱う社会である。こういう中でどのように、自他の命を尊重するということが成り立つのか。人間の救済が成り立つのかと考えざるを得ない。こういう命の問題が課題にならない信心とは一体何かと思う。こうした問題も、信心の課題にしていかなければならない。とは言え、私も結局のところ毎日のように安価な卵を食べているし、特に鶏の環境を改善しようという運動もしていない。しかし、それでいいのだろうか。自分がそれで納得できるのだろうか。
また、最近同じように命に考えさせられる記事が毎日新聞にあった。
「子犬に障害…ペット店「治療費は×、交換はOK」 納得できぬ飼い主」という題の記事であった。ペットは、売買においては物として扱われる。いのちではなく物として扱われるのだ。そのため、万が一成長過程で最初にはわからない障害などがあった場合、返品は出来ないが、交換はできるというのだ。冷たい制度だが、そういうことが実際であり、その中で飼い主の中には、購入してからしばらくしてから、子犬の障害が見つかったり、顕在化したりして、何とかしてほしいと願う人がいるそうだ。しかし、交換はできるが、持っている病気の手術費用や、治療代金は出せない。なぜなら、今飼っているペットを交換した方がずっと安つくからである。しかし、飼い主としては愛情が移ったペットを交換など当然できるはずもなく、しかたなく、何百万と言う治療費を払うことになるという記事だった。しかし恐ろしいのは、「交換」という制度があるということだ。記事の中にも書かれているが、障害が見つかり、交換されたペットのその後のことを想像すると、胸が痛い。私たちはいのちをどのようなものとして見ているのだろうか。繰り返しになるが、このように命を扱う世界において人間の救済とはなにか?それはやはり商売取引のようになってしまわないか。胸底にピューピューと隙間風が吹き込むような救済であろう。だとしたら、人間がうまいこと救われる道などないということが、自己の罪を知らされるという形の救済が唯一あり得ることではないのか?
(終)
こういう生き方していても、亡くなったら極楽へ行けるから安心と言うのは確かに教義としてはそうなのだが、何かそこをすべてと考えることは違うのではないか。そのような救済は非常に安易である。
本当に私が求めていることは、存在の罪深さや悲しみちゃんと向き合うということだろう。如来の光の中でそれが可能になるのだと思う。如来の救済と言ってもそれは、私がうまいこと救われることではないのであろう。自己の地獄を見せてもらうという形ではないだろうか。
罪を帳消しにして、うまいこと救済されるなんてありえないと思う。地獄を引き受けていくこと、引き受けて行けるものになること、そこに深い願いがあるように思う。
親鸞はどういっているのか、学んでいきたい。