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南アフリカの宗主国イギリス

 1993年10月にロンドンに赴任した。毎週雨がふり、暗くて寒い生活に気分が滅入りかけていたとき、劇場の明かりをみつけ、英国はシェイクスピアを生みだした国であることを思いだした。タイムアウトという情報誌を買って劇場通いが始まった。国立劇場から小劇場(フリンジ)まで、シェイクスピアから現代劇、ミュージカルまで、ありとあらゆるジャンルの芝居を見漁った。とくに印象に残っているのは、「アメリカの天使たち」と「ワップディードゥー」で、どちらも同性愛とエイズ死が関係する現代劇だった。

 ちょうどロンドン北部郊外にヤオハン・プラザがオープンしたばかりだった。初めてヤオハンに行ったときに手にした無料のタウン情報誌「英国ニュースダイジェスト」の求人広告に「アパルトヘイトについて記事を書ける人募集」と出ていた。1994年4月に、南アフリカでは初の全人種選挙が予定されていた。迷わず応募して、仕事帰りにシティーの北方のさびれた地域にある事務所を訪れて面接を受けた。僕の他に応募者はおらず、選挙の行われる4月までに「アパルトヘイトの終焉」*というタイトルのコラムを8週間書くことになった。僕は仕事の合間に、町の図書館の本を借りて南アの歴史を学びなおした。

 17世紀なかばに、オランダがケープタウンを補給基地にして以来、南アフリカはオランダ系白人が植民地にしていた。ところが19世紀末に金とダイヤモンドが発見されると、イギリスは、第一次ボーア戦争(1880-1881)、第二次ボーア戦争(1899-1902)によって植民地を横取りし、1910年(日本の韓国併合と同じ年)に南ア連邦を発足させた。もちろん黒人たちは17世紀以来一貫して白人たちに支配されてきたのだが、土地や権利を奪う人種差別立法が次々と生まれたのは、南ア連邦になってからだ。

 したがって第二次世界大戦後の1948年にアパルトヘイト政策が始まるが、人種差別はこの年に始まったのではない。むしろ19世紀末にアメリカ最高裁が「分離すれども平等」として人種差別を合憲とした判決にならって、南アも「分離(アパルトヘイト)」であって人種差別ではないと南アの白人政権が世界にうったえたのだ。しかし、どう見ても差別にしか見えない。皮肉にも、結果的に「アパルトヘイト」という言葉が人種差別の代名詞になってしまった。

 ロンドンにはANC(African National Congress)のほかに、PAC(Pan Africanist Congress)、インカタ自由党(IFP)、すべての黒人団体が事務所を構えていた。いろいろと話を聞いてみたが、「黒人に投票権を与える(1994年)だけでは、アパルトヘイトの解決にはならない。17世紀以来奪われ続けてきた土地を返してもらわないことには、黒人たちの生活はよくならない。」と教えてくれたPACが一番民衆の立場に立っていると思った。

 だが、イギリスは1980年のジンバブエ独立選挙で、PACに似たZANUが政権を取得し、ムガベ政権が始まったことを「反省」して、周到なPAC潰しと、ANCの懐柔を行っていた。テレビや新聞の報道はANC一色で、土地問題を取り上げるPACにマスコミは暴力集団のレッテルを張って存在そのものを打ち消していた。南アの歴史とアパルトヘイトの実情が、ジャーナリストが書いた記事はみんな表面的で真実を伝えておらず、むしろ真実を覆い隠し嘘を広めているということを僕に教えてくれた。

 僕がロンドンで読んだ新聞記事で数少ない共感できた記事は、南アへの思い入れの強いオランダ系白人のものだった。なかでもリアン・マランの「南アフリカ日記」(ガーディアンに毎週火曜日掲載されたものを秘書のジョアンヌさんが切り抜いてくれた)は、非常にクールで面白かったので、5回分を全訳して日本に住む友人たちに送った。その中に最古の現生人類遺跡、クラシーズ河口洞窟が登場する。これを読んでいなかったら、2007年にそこを訪れることにはならなかった。

 
*英国ニュースダイジェストに書いた「アパルトヘイトの終焉」(全9回、ただし第8回「不名誉な名誉白人」は掲載されず)は、国際戦略コラムのホームページで読むことができます。(以下URLより)

1~4回
https://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1212282.htm
5~9回
https://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1212292.htm

トップ画像は、ロンドンのトラファルガー広場にある南アフリカ高等弁務官事務所。ここが英国による南ア植民地経営の本拠地である。

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