夢の国連職員になる
宇宙開発推進室に配属されたのとほぼ同時期に、新聞の夕刊求人欄に「国連で働きませんか」という小さな広告を当時の妻が見つけ、僕は受験対策もせずに軽い気持ちで応募したら選抜された。アソシエートエキスパートという制度で、日本政府が払っている国連分担金の割に職員数が少ない日本人が、国連で正規職員のポストをとりやすいように、最初の2年間は日本政府が人件費を負担して国連で働く機会を与え、その間に正規職員になってもらおうという制度である。僕のような学位のない者にとって、ありがたい制度である。
赴任希望をナイロビにある国連環境計画(UNEP)にしたのだが、日本政府とUNEPの折り合いがつかず、アソシエートエキスパートに選抜されてから3年待った。結局、1991年の7月からパリのUNESCOの地球科学部で働くことになった。(日商岩井を1991年6月に退社。)しかし、いざ着任すると仕事がまったくなかった。7月から11月まで仕事は与えられず、秘書とおしゃべりするか、ぼーっと過ごしていただけだった。ノイローゼ一歩手前の鬱状態で、商社を辞めたことを後悔した。
11月のユネスコ総会の頃、ベルギー人の上司から書類整理を頼まれた。手紙のやりとりや出張報告書、契約書や報告書が分厚いファイルに綴じられていて10冊ほどあるのだが、その中から契約書だけ抜き出して別のファイルをつくるという指示だった。契約書というのはA4の表裏一枚に、わずか数行で業務内容とユネスコが振り込む金額を示すだけの簡単なものだった。
一週間、朝から晩までかけて、ファイルの中身を読んでいくと、彼が3つの仕事しかしていないことがわかった。ひとつ目は、旧知の研究機関と契約書を交わして、ユネスコが金を渡した見返りに、成果報告書にユネスコのロゴマークをつけてもらうこと。これが年に数件あった。規模は1万ドル以下で、研究プロジェクト全体をまかなうには足りないので、小さな会議の開催や報告書作成などの支援が多かった。ふたつ目は、さまざまな会議に出張すること。何か準備をして報告が求められているわけではなく、列席してひとこと挨拶する。後で出張に同行してわかったが、なんでもいいから、とにかく褒める。みっつ目は、お金のないユネスコに手紙を送って資金援助を求めてくる人に、「あなたのやろうとしていることは大変すばらしいが、予算がないので他をあたってほしい」という断わりの手紙を書くことだった。
なるほど、これでは僕に仕事が回ってこないのももっともだと納得した。仕事が終わって夜11時頃誰もいないオフィスを出ると、日本政府代表部にだけ明かりがついていた。内線電話で前川喜平一等書記官(当時文部省から外務省に出向して、ユネスコ関連の実務を一人でこなしていた)に電話すると、「カフェでビールを飲もう」と相談に乗ってくれた。
他に誰も客のいない、深夜のカフェで、生ビールを飲みながら、前川さんに上司の仕事内容を報告し、せっかくの2年間をこのまま無為に過ごしたくないと打ち明けた。前川さんは、一瞬ウーンと考えて、「こないだJICAパリ事務所の人に会ったけど、JICAの話を聞くのはどうだろう」と言った。それからまたウーンと考えて、「ユネスコには国連全体の文書を保管しているアーカイブ(文書庫)がある、そこには国連のこれまでの会議の議事録があるはずだから、読んでみたら何か見えてこないかな」、「ウーン、、何か具体的なプロジェクトを考えられない?それを提案書の形にして加盟国や資金提供機関に送って、意見や感想を聞くというのはどうだろう」と、あっという間にいろいろなアイデアをくださった。
仕事は人から貰うものではない、自分で動いて、自分で生みだせということか。それがわかればあとはなんとかなりそうだ。前川さんのおかげで一気に忙しくなった。