PBLで育ち、受験を経験し、独学に躊躇がない自分が子の学びにどう取り組むか(中編)
1つ前に公開したnote記事がいろいろな人の心に刺さることができたようで、たくさんの人に読んでもらいました。ありがとうございました!
長々と読みやすい記事でもないのに暖かな目で読んでいただいて、みなさん共感の言葉をあらゆるオンライン上の場所に残していってくださいました。ありがとうございます。
ツイッターでDMをいただいた方もいたり、子どもの学校選びの参考にしてくださった方もいて、「おおおお」と反響をひしひしと感じています。
ここからは「です・ます」ではなく、ちょっと自分の振り返りしながらまた備忘録的に記載します。
記事を書いての私自身の学び
1つ分かったのは、「PBLとその効能っていうのがなんだかうまく言語化できなかったけど、やっぱこれだよね」という感想や感覚をたくさん頂いたこと。「もやもやを言葉にしてくれて嬉しい」とか「納得感ある」と言ってもらえ、意外と自分の考え方は、想定外な価値観や考え方でもないんだな、ということを認識できた。
特に「私が一番身についたのは、「新規分野の挑戦」に対する「独学」への躊躇のなさだ」という言葉については、皆さんから共感の嵐で、皆それを言いたくて言葉を探していたんだな、と思った。(起業家にならせるためのPBLとか、サンフランシスコから来たPBLとか、という方向性ではないんだな、やはり、と思いました。)
もう1つ分かったのは、その後たまたま息子の「森のようちえん」の体験と観察をツイートしたら、そっちも沢山の共感や反応をもらったことから、「体験学習やプロジェクトベース学習の様子やリアルって、知らない人が多いっぽい」ということだった。実は、私が息子を通わせはじめた「森のようちえん」や、近隣のPBLを実践してきている小学校の先生たちのあり方を観察すると、親として大人として学び要素がいっぱい。それを1つ1つ忘れないように書き留め、私自身の学びにしてきたのだけど、それも公開していかないと・・・。これも自分自身のPBLだ。そして、自分の子との接点を少しでも何かしようと思っている親たちの学びのために貢献しつつ、そのフィードバックを得ながら、私自身のPBLを加速させる。(PBLは何重にも入れ子状態になるんだと思う。それもどこかで書きたい・・・)
というようなことを振り返りつつ、今回は自分が自分の子の学びにどう取り組むかをいかに考え始めたかをシェアしようと思う。
記憶のプロセスが一番強い価値を持つ
前の記事で「中学受験の時に詰め込んだ知識は、今全く覚えてない」ということを書いた。逆に「過度なプレッシャーを受けた時の対処法」とか「人を蹴落として勝つということがどういうことなのか」などを勉強するのによかった、と書いた。
実はこれが私の中では一番気になってることだ。悲しいことに中学受験という経験でさえ、熾烈な競争体験として「体験学習」化していたのだ。知識ではなく、そのプロセスで感じたこと、リアルに悟ったこと、心に深く刻み込まれたことは、全て覚えているのだ。だが、サピックスで覚えさせられて、競争させられて獲得した知識たちは、「キャベツの生産地1位」とか「工業コンビナート」とかなんかいろいろだったが、全く覚えていない。はっきり言って、30年前に覚えたキャベツの生産地なんて変わってて当然だし(ていうか生産量ランキングなんて覚えてどうする、それより品種やキャベツそのものの植物としての仕組みや保存方法や成長点とかの知識がいまや欲しい)、生活の中で一度も使わなかった。だが、競って手を上げて答えを叫んでいた小学生の姿が、私の脳裏には焼きついて残っている。なんか、幼心にこんなん役立つかなあ、とか、狂気じみた競争が怖かったのだ。
私が通った中学(桜蔭)では中学3年の時に自由研究をするのだが、その時に、シュタイナー教育について調べている同級生がいた。その彼女の発表の中で初めてシュタイナー教育に触れて、「ははあ」と思ったのを忘れられない。(これも1つの体験学習か?本を読んで知ったのではなく、天才肌だった彼女の淡々と語る口調とともに私の記憶に焼き付いている。)
シュタイナーは「記憶する」と「忘れる」を繰り返し続けることが当然であり、子どもの記憶された知識は忘れて当然であり、「忘れ去られる」ことによって初めて潜在意識となり内面的に消化される、と言う。血と肉となる、という感じだろうか。そして、その後の人生で必要な時に思い出される。だから知識は忘れていいのだ。それよりも一度脳に定着し記憶するために、通過したプロセスが重要という。
シュタイナーは細切れの時間割を否定し、没頭して数ヶ月プロジェクトをやることを推奨した。私は中学の時同級生の発表を聴きながら、自分が小学校で受けてきたプロジェクトベースの授業(後述する千葉大附属小学校の上杉先生たちが導入した、土曜にやる「総合的学習の時間」)や、時間割を無視して独自のカリキュラムを実行する千葉大附属小学校の工川先生を思い返していた。
机の上でだけ勉強することに慣れさせられる私たち
「手触りのある学び」。そんな言葉がその時頭の中をよぎっていたと思う。
中学受験を終え、中学3年から勉強が本格化していき、算数から数学へ、理科から生物や化学へと次第に移行していくような時期だった。中3だった私は、中学受験以降も続く詰め込み教育が教科書の中に展開されていることに違和感があった。ミトコンドリアの細胞について、顕微鏡で見て培養したりすることもなく、教科書にあることを覚え、3-4週間後の中間試験に出るから頭に入れる。先生はミトコンドリアを「かわいい」と言ったが、私にはそんな愛着を持つ時間も機会もない。今思えば、この進学校での学習体験は、なんて貧弱な教育だろうか。
今住んでいる山の近所の高校生(で、いいづな学園グリーンヒルズの卒業生)は、もともと生き物が大好きだったが、この夏休みに近くの化石地質博物館のお手伝いを始めた。聞いてみると、動物園や森で死んだ動物(アシカ、キリン、いのししなど)の解剖をし、骨を取り出し標本化するのを手伝っている、という。皮を剥いだら、アシカはやはり哺乳類だから骨が5本指があるんだ、とか、肉をそいでもそぎきれないので水の中に沈めて微生物に食べさせて腐乱させ骨を取り出すんだ、とか。きりんの舌は太くて硬くて驚いたとか。その臭さ、その大きさ、血なまぐささ、感触。とても生々しく話してくれた。普段は静かな彼なのに、その時はこっちの目をじっと見据えて、絶え間なく驚きの表情でたくさん話してくれて、「ああ、すごく豊かな経験をしているなあ」とつくづく感慨深かった。めちゃ臭い!と言う時の、あのつくづく嫌そうな顔!
私たちの知識創造のプロセスの中では、「知識をインプットして、それをアウトプットすること」が日常的に使われている言葉だ。キャリア形成の中でも、「インプットを増やし」「アウトプットの効率を上げる」などの単語が使われる。インプットしたものを横でつなげたり、自分なりに加工したり調理してアウトプットに創造性を出すこともあるし、それがユニークさを生む、というのは分かる。
だが、教科書を超えた経験から得られるものは「インプット⇄アウトプット」みたいな単純な行き来ではなかった。彼のその表情を思い出す。嫌悪の感情、それを超える好奇心、恐怖、面倒臭さとの戦い、ワクワクする瞬間までの準備や訓練の嫌さ加減、掃除の責務、色は綺麗だ、骨があるという感動、知識と実体験が接続した時のアハ!モーメントの湧き上がるアドレナリン、とか。そして、深く深く染み渡るように様々な他の経験と接続していって、今もまだ消化中で咀嚼している。まだ言語化できない。手触りのあるまま記憶の深化がずっと長く続いている。経験というのは、もっと奥行きがある。知識が脳みそに出入りするだけじゃない。だから、「インプット」ってなんだ?と思ってしまうのだ。
試験に受かりやすくするために、私たちは定型化しやすい経験のフォーマット(教科書・授業)で、知識を「インプット」するようになった。それは、「アウトプット」の形が統一で求められるからだ。試験というやつ。
だが、もともとその「知」をオリジナルに創造していた人たちは、全て「経験」から「知」を紡ぎだしているのだ。実験を繰り返したダ・ヴィンチも、エジソンも、テスラも、アインシュタインも。今や彼らの作り出した「知」が教科書に載っている。「知」を消費するのではなく、「知を創造する側に回る人間になりたいか?それが私の問いだ。
私がミトコンドリアを好きにもなれず、動物が好きでも生物学には進めなかったけれど、もし上の高校生と同じ体験を長期スパンでできていたら、「生物学」というものに対する意識や専門性への取り組み方、人生全体で理解する理解の仕方は、全然違っていたのではないかと思う。
(家の前にこんな形でぶら下がっている羽化途中のセミを見て、科学的に面白いと観察する自分と、刻々と変わっていく芸術のような色味が気になっている自分と、「なんだこのぶざまな格好は!恥ずかしいだろうなあ!」とユーモアを感じずにいられない自分がいて、これ全てがインプットであり、セミ君に対する愛着であり、自然への愛へと接続していき、私の腹の中でいろいろと時間をかけて消化するのである。)
「社会課題がない」と言う大人たちへの衝撃
私が一つ驚いて唸ってしまった出来事がある。塩尻市で地方創生のお手伝いの仕事で、コワーキングスペースを併せ持つ、起業家育成や創業者を支援するシビック・イノベーション施設「スナバ」の立ち上げに関わった時だった。地方に訪れる企業のうち、何か「イノベーション的なもの」を期待している企業の多くは、「自分の社員たちに社会課題を発見させたい」と言っていた。彼らの困りごとは、「社員が自分で取り組みたいという社会課題がない」という不思議な困りごとだった。「だから社会課題が多い、過疎化するかもしれない田舎という場所で体験させる」と。
その困りごとを聞いた時、衝撃を受けたのを覚えている。「わざわざ地方にまで来なくても、東京なんて社会課題の巣窟では・・・」と。
ソーシャルイノベーション文脈ではそれらを「じぶんごと化」と呼んでいると思う。活動と内面と接続させるための様々なエグゼクティブ・ラーニングや研修、ワークショップが多発している。途上国のコミュニティ・ビジネスやソーシャル・ビジネスの仕事をしていた時も、同様の「マインドセット・チェンジ」のための経験型研修が、実は多くのソーシャル・エンタープライズの資金源になっていることも、実際体験して知っている。アフリカではそういうものをホワイトツアー(白人の偽善ツアー)と呼ぶ人だっている。
たくさんの大人たちが「じぶんごと化」や「社会課題探しと自分探し」の旅に出るのを見てきた私は、(そしてその旅のガイド的になることもあったし、その旅から対価をもらうこともした)20代ー30代の社会人たちが心底揺さぶられ、様々な決断を迫られる過程を見てきたが、本当に苦しそうでまさに変態と脱皮に近い状態であった。そして、セミの脱皮は3割しか成功しないと言うが、まさにこれも同じ。多くの人は結局元の状態に戻りモヤモヤを抱えながらそつなくこなして生きていくか、その過程で自分探しが極限まで行ってしまって会社とも同僚とも意見が食い違い始めてタコの糸が切れフラフラになったりするのも見てきた。命がけの脱皮であることを、会社も組織も教えてくれないまま突っ込ませていた。(さらに言えば、都合のいいことを会社の人事は言う。「ミッションを持たれすぎると会社を辞められてしまうので、そこそこにしていただきたい」とか。呆れて苦笑するしかない。)
こうなるのも当然である。なぜなら彼らは「インプット⇄アウトプット」のf(x)関数みたいに生きてきたからだ。そういう教育を受けてきたから、インプットを受けた時、脳内で広がる様々な知覚・感覚・感情をシャットアウトして、短時間で他者がわかりやすいようにアウトプットをすることに長けている。だが、プロジェクト型で体験をしながら自由にアウトプットの形を模索しながら学んだ人たちは、即座のアウトプットは失敗する可能性が高いかもしれないが、言語化したり造形化したりできないものを少しずつ長期間腹の中で持ち続けて、感情や今までの経験をじっくりと繰り返し咀嚼し折り重ねながら、忍耐強く自分の中に落とし込む。アウトプットのカタにとらわれない。これは人生全体において、このような学び方の場数が多いか少ないかが、結構「鍵」ではないか、と私は考えている。
「じぶんごと化」は単純なワークショップや研修や旅では身につかない。私たちは「教育」という長い時間を経て、意図的に「作られている」ことを忘れてはならない。会社でうまくいくように、細胞、カルチャー、価値観が作られている。そこに「じぶんごと化」を単純にインストールしようとしたりして、そこから脱皮するなどということは、今までの人生を全否定する行為で、とても危険だ。
あるアメリカ人の友達が言った。「日本の教育のどこが北朝鮮の教育と違うの?」と。誰も具体性を持って反撃できない。私たちが自分の教育のオーナーシップを持てない限り、私たちは自分の人生のオーナーシップを持てない。彼は続けて言った。「日本人はSheep(羊)だ。アメリカ人はすぐNuts(キチガイ)になるけど、必要な時に個人がちゃんとアクションを起こす。Sheepじゃない。」この会話はコロナ禍に対する対応について、国を比較した時に出てきた言葉だ。(どっちも難しいけどね)
プロジェクトベースで過ごした時間の総数を増やす
夫であるポチエ(https://note.com/spdlm/)と前回出した記事について話していた時、彼も自分が受けた教育について思いを巡らせて、様々な経験をお互いにシェアした。彼は13歳までは日本の小学校だったが、その後イギリスで大学院まで教育を受けている。
「自分の教育は普通の公教育だったし、親がPBLなどを目指したこともなかった。なのに、なぜ自分があなたと同じようなプロジェクトベース型の人生を送って同じような価値観を持って、伴侶として側にいて一緒に事業ができるかを考えていた。
小学校までは本当に嫌だったしまるで記憶にないが、イギリスでの教育は必ず実験やコースワークというタイプのものが付随していて、プロジェクトベースの要素がかなりの量埋め込まれていた。何度も思うけどそのまま日本で教育を受けてたらグレてたけど、イギリスに行って大変だったけど良かった。」と言う。
そこで私自身が素人ながら自分で調べを進めると、欧米ではシュタイナーやそのほか同時期に教育学を発展させた幾人かの思想家たちが提示した教育手法をイデオロギー化させることなく、その要素である「経験的学習(Experiential Learning)」の部分だけ、きちんと浸透していっているのではないか、とわかってきた。
「シュタイナー教育を標榜する」ということを謳わなくても、公的なカリキュラムの中に「経験」を重視するパーツが様々に組み込まれ、既にある一定のメインストリーム化ができている。そして、教育学の中でしっかりと体験学習の教授法を学んだ教師たちがそれを実践していく、という流れが出来上がりつつある。
日本のように、バカロレア、シュタイナー、レッジョ・エミリア、モンテソーリ、探究、と種類をつけた教育サービスが展開され市場が激化する必要がない理由が、それではないか、と思い始めた。(なんか日本だけしか聞かない...)
差別化を図る学校ももちろんあるだろうが、資金的体力がなく公的教育しか選択できない子たちも、「プロジェクトベースで学ぶ時間」というものをある程度確保できているのではないだろうか。だから、全体的に誰もが「Nutsになるかもしれないけど個人的に必要なアクションをとる」ことができるのかもしれない。
私がここから立てた仮説は、「プロジェクトベースで過ごす時間を少しでも幼少期から増やし、場数を増やすこと」で、日本の公教育の中にいても自分の教育にオーナーシップを持つことができるようになるのではないか、ということだった。
「総合的学習」はPBLをメインストリーム化する試みだったが
前の記事を書いてから時間が開いた中で、私は前の記事の中に出てきた「千葉大にいてPBLを組織化した上杉先生」がどういうことを考えていたのかを知りたく、彼の著書を読み漁ることにした。
その中で理解したのは、日本でも1980年代の10年間は、まさにPBLをメインストリーム化させるための様々な施策を打っていた時代だと言えるということ。これは欧米で、上にのべたようなシュタイナーやそのほかの教育学の思想家の系譜をもつ「経験」をベースにした学習が、公的教育にメインストリーム化していくのとほぼ時代が符号しており、日本も決してそこまで遅れをとっていたわけではなかったのではないか、と思う。
1980年から彼が千葉大附属で実験しはじめ、1984年ごろに離れた。私は1985年に千葉大附属に入学し、小学校3年の1988年からPBL的教育や「総合的学習」を経験している。
だが、「ゆとり教育の撤廃」という揺れ戻しに日本は直面する。1990年代後半である。その時の体験を、上杉氏はリアルにその顛末を書き綴っていた。ある日いきなり報道され、PBL浸透に反感をもっていた一部の人たちの反撃により、PBLは干されたのだ。
総合教育を「ゆとり」という名前にしてしまったブランディングや言葉の失敗。これを私の母は悲しそうに話していたのを思い出す。「ゆとり、なんて言葉使わなければ良かったのに」と。そして、それをいいように使って、揚げ足取りのように潰すことになった様々な抵抗勢力の問題。多分、政治の問題。
教育の分野にいる人にとっては当然の歴史的事実なのかもしれないけれど、現代の親たちはが欧米と同じような教育を子どもが受けていたかもしれないキッカケが、90年代に揺り戻しで潰れた、ってこと知ってるのだろうか?その揺れ戻しが、実はものすごく大きな経済的な損失に、つながっているってことを?「やっぱり海外はいい教育がある」とパロアルトや北欧やオランダなどから輸入しようとしているものは、日本にも種播きは始まっていたし、種を播いていた人たちがいた。
自分の子だけが特別な教育を受ければいいのか
そんな流れを観察しPBLの系譜を勉強しながら、私はもう一つ考えたことがある。「自分の子だけが特別な教育を受けても仕方ない」という実感だ。
私の子が周囲から特別視されて、変な考え方だね、不思議な見方だね、と言われるのではなく、周囲の子たちと一緒に様々なことをプロジェクトベースで考えて一緒に研究したり、遊びながら学んだり、経験したことを共有して味わいあったりして欲しい。だから、同じくらいの「プロジェクトベースで学びを進めた経験」の場数と時間があるといい。同じ学校でなくてもいい。でも「ものの見方」を共感しあえるといい。そうでないと私が感じたのと同じような孤独を感じるだけである。
自分が変わっているから仕方ないんだ、自分は皆と同じではないから伝わらなくても仕方ない、自分の考え方は皆の目からは間違って見えるらしい。そんな風に思って悲しくなったり自信喪失をする機会を少しでも減らすためには、よりたくさんの人たちに(大人も子供も)同じような経験から学ぶ時間をなるべく多く過ごしてもらい、同じようなプロセスで学ぶ場数を踏んでもらうことだ。
今、私は会社を経営していて、20代ー30代のチームメンバーを育成する機会が多い。仕事そのものがPBLになっている部分が多々ある。だが、高等教育に到達するまでにPBL的な体験を全くしてこなかったと思われる人と、少しでもそういう体験をしてきたと思われる人で、全然吸収の速度や自立性が異なるということが体感的にわかっている。どうやら昨今では一般的に「PBLは大学教育などで利用される」と思われており、個人リサーチプロジェクトだと思われている。対して、探究学習は幼少時から小学校〜高校までと思われているようだ。だが、上杉氏は幼少時からの12年間を通じて、どんな経験をどの順番で体験させれば、段階的に自立した学習能力を持ち、プロジェクトを自分で回して学習していけるような子になるか、をリサーチしていた。そこから発展して、あまねく地域の子どもたちに、PBLを経験できる時間とアクセスを提供することはできないか?それが私が今一番考え、知恵を絞っていることである。
なので、エリート教育を自分の子どもにだけ受けさせることは、興味がない。地域の子どもたちがみーんなひっくるめて、プロジェクトベースの時間を持てることがベストだ。自分は時代の状況なども含めて仕方なく「自分だけエリート教育」に進学するしかなかったわけで、それが私に圧倒的な孤独をもたらしたことを身をもって知っている。もし周りの子たちと共に、小学校のPBLのままの中学校に行けていたら、どんなだっただろう。
インプットとアウトプットを超えた、深い記憶を作る学びの時間を、少しでも多くの大人と子どもへ。私は、こんな考えから、今3つのことに取り組んでいます。
次の記事では、自分が本当に上記のような考えから、今何に動き出しているかを書きたいと思います。(まあ、自分自身のPBLですね、ほんとにこれ)