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[短編小説] 荷葉

 柿の木に止まった蝉の二重唱ならぬ三重唱が耳をつく。風はそよとも吹かず、軒先に吊り下げられた風鈴は沈黙している。父から電気代を節約しろと申し渡されているので、ばあばはクーラーを点けない。縁側と窓を開け放しても、室内は蒸し風呂状態だ。畳の上に胡坐をかいた兄は、首筋の汗を拭いながら推理小説の頁を繰っている。

 扇風機が生温く湿った空気を申し訳程度に攪拌し、外枠に結び付けられたリボンが気だるくはためく。ばあばの着物に焚き染められたお香が、扇風機の風に乗って漂ってくる。あれは何の匂いだった? 黒方くろぼう梅花ばいか落葉らくよう侍従じじゅう菊花きっか? いや、六種むくさ薫物たきもののうち、ばあばが夏に焚くのは荷葉かように決まってる。夏生まれのあたしの名前は、ばあばが、この薫物からつけた。梅雨明けの猛暑日に生まれた兄も、荷葉の香りがはすの花の匂いを思わせるから、それに因んでれんと名付けられた。

 年季の入った卓袱台には、ばあばが作ってくれた香ばしい味噌焼きおにぎり、今朝畑でもいだ胡瓜きゅうりとツナ缶をマヨネーズで和えたサラダ、透明のグラスが並ぶ。氷の入った麦茶を注いだグラスの表面は結露している。

 学校のプールから帰ったばかりのあたしは、喉を潤そうと麦茶のグラスをとった。氷が揺れ、からからと涼しげな音をたてる。勢いよく口に含むと、冷たい麦茶が放置していた虫歯を直撃し、ひゃっと跳びあがった。

 目を覚ましたあたしは、声を上げなかったかと不安になり、隣のアジア系男性をちらりと窺ったが、搭乗時に配られた新聞に夢中なようだ。シートベルト着用サインが消えたことを告げるポーンという音が聞こえた。目をこすって外を眺めると、濃い水色の空に、綿菓子のような雲がどこまでも広がっている。離陸してすぐ、微睡まどろんでしまったらしい。

 やけに五感を動員する夢だった……。あれは、小学何年生のときのことだろうか。際限なく繰り返された夏の日々なので、いつかなんてわからない。確かなのは、ばあばに守られ、兄と2人で安心して子供でいられたときの記憶だ。

 ドリンクサービスを始めたキャビンアテンダントに、ミネラルウォーターを頼んだ。一気に流し込むと、乾ききった体は面白いように水分を吸収した。

 志半ばで帰国する自分を非難する同僚や先輩の言葉が胸に刺さるが、この選択は間違っていない。あたしは、現地時間に合わせたままだった腕時計を日本時間に合わせた。

     


                ★

 iPhoneに父の名前が表示された。話の内容は、取る前からわかっていた。

「ああ、荷葉ちゃん。宅食サービスを頼んでくれてありがとうな。これで、食事の心配はなくなったよ。それで、いつ帰ってこられる? 今日もばあばが、おまえに会いたい、はやくおまえの子の顔が見たいと泣いたんだよ」

 何もかもを放り出して、ばあばのもとに飛んで帰りたい自分を律して答えた。

「サンディエゴ店が軌道に乗るまでは難しいよ。何度も言ったけど、ロスのときは、台北店の経験がある先輩のもとで働いたけど、サンディエゴ店は私が初めて店長としてゼロから育てた店なの。部長には、正晴まさはると夫婦で赴任できるように配慮してもらったし」

 いつもは、ここで話が終了する。だが、この日の父は、何としても確約を引き出したそうだった。

「その何だ、オーガニック野菜が売りの弁当屋っていうのは、具体的にどれぐらいしたら軌道に乗るんだ?」

 怒号や暴力で家族を支配してきた若い頃の父を知るだけに、困ったときだけ懇願されることに憤りが湧いてきた。

「何とも言えないよ。ロスでは、リトルトーキョーに出店できたから立地面で有利で、駐在員の日本人、観光客、日系人がたくさん来てくれたから、順調に滑り出せた。オーガニックのセレブ人口も多かったし。だけど、サンディエゴのアジア系の店が集まるコンボイストリートに出した店は、店を知ってもらうことから始めなくてはならなかったの。日本人の駐在妻、白人やアジア系の意識高い系の奥様とその子供たちを集めて試食会を開いてファンを増やした。最近は、リピーターの中からケータリングを注文してくれる人も出てきて、ようやく利益が出るようになったところ。メキシコ人のスタッフとも信頼関係ができてきたから、もう少し様子を見たい。無責任なことをして、店をつぶすわけにはいかないんだよ」

「正晴くんに残ってもらって、おまえだけ帰ってくることはできないのか? 本社から、替わりの店長を派遣してもらうとかできるんだろ……」

「いずれ、そうする。けど、もう少しだけ、待ってくれない? お兄ちゃん一家も近くにいるでしょ?」

「おまえたちには、今まで黙ってたけど、蓮と美織みおりちゃんは離婚した」

「え、いつ?」

「去年」

「どうして!?」

「蓮がパワハラとかいうのに遭って、うつ病になって、休職してるんだ。ひきこもりが長くなって、とうとう愛想つかされたらしい。いま、うちで療養中だ」

「知らなかった……。お兄ちゃんとは、たまにメールしてたけど、何も言わなかったから。蓮人れんとくんは?」

「美織ちゃんが連れてった。来年は受験だから、転校させるのは気の毒だったが……」

 この1年半、実家を顧みなかった罪悪感が、岩のようにのしかかってきて胸を押し潰した。だが、ここで気を緩めたら、張りつめてきた糸が切れてしまう。

「お兄ちゃんが家にいるなら、ばあばの介護を手伝えるでしょう?」

「あいつは、体が動かないと寝てばかりで、使い物にならない。ばあばが起きられないときは、俺がしもの世話をしてるんだよ」

「介護保険とか、ヘルパーさん頼むとかあるでしょ? こっちからも、調べてみる。手続きを調べて、審査してもらえるように頼むから」

「蓮は他人が家に入るのを嫌がるんだ。惨めな自分を見られたくないらしい。とにかく、一刻でも早く帰ってくれよ。いいな? 電話代かかるから、もう切るぞ」

「待って。お兄ちゃんが働いてないなら、生活どうしてるの?」

「ばあばと俺の年金。蓮は慰謝料だの養育費だので何かと出費が多いから。とにかく、荷葉ちゃんが帰ってきてくれないと、どうしようもない。ばあばに一番世話になったのはおまえだろ」

 何か言おうとするあたしを遮るように電話が切れた。

 日本のインターネットニュースでちらりと目にした「老々介護」、「8050問題」という言葉が脳裡に浮かんだ。

「お義兄さん、仕事してないの?」

 聞き耳を立てていた夫の正晴が、飲んでいたビールのグラスを置き、ためらいがちに尋ねた。

 あたしは力なく頷いた。「うつ病で、実家で療養中……」

「おばあちゃんの介護、お義父さんが?」

「そうみたい。ばあば、大腿骨を骨折してから、寝て過ごすことが多くなったから」

「そんなときなら、絶対に帰国するべきだ。店は俺たちが引き受ける。俺もできるだけ早く帰国願いを出すから、日本で子供をつくろう。君も、もうアラフォーだろ」

「わかってるよ!」

 正晴の言うことはいつも正しい。あたしは目標に向けて一直線で、周囲が見えなくなってしまう。5歳年上の正晴は、石橋を叩いて渡る慎重派で、あたしの見えないものに気づかせてくれる。本社の部長は、アメリカの子供たちに栄養バランスの良い弁当を食べさせたいと暴走するあたしを案じ、正晴と2人で赴任させてくれた。

 正晴は、カナダの大学で非行少年の食生活と行動の関係を研究してきた。食生活と行動の研究を続けられるという条件で、オーガニック野菜の販売とレストラン事業を展開する「ベジごころ」に入社した。専門知識のある彼が一緒に赴任してくれたことで、信頼できる仕入れ先を選定でき、オーガニック野菜のbentoを食べ続けることの効用を科学的に顧客に説明できた。

 だか、彼はあたしと結婚しなければ、研究室から引っ張り出され、海外で時間にルーズな現地スタッフの管理に悩まされることもなかったのだ。申し訳ない気持ちは常にあった。

                 ★

「Kayo, あなたのお店が売りに来てくれるbento、すごく評判がいいわ。毎日でも子供に食べさせたいと言うお母さんもいるわよ。お店に買いに行った保護者もいるんじゃない?」

 ハイスクールの校長 ミセス・モリスは、コーヒーカップを片手に、柔らかい微笑を浮かべた。

「ええ、店のカードを配らせていただいたので、そのご縁で来てくださる方が増えています。パーティーのケータリングの注文もしてくださった方もいます。それでは、ウイークデイは、毎日売りに来てもよろしいでしょうか?」

「ええ、ぜひお願いしたいわ。でもね……」モリスは、年輩女性にしては、ひきしまった脚を優雅に組みかえた。

 あたしは、続きを促すように青い瞳をのぞき込む。

「お値段がね……。もう少し安くできないかしら。最初は、興味本位で購入する生徒が多いのだけれど、毎日は続かないの。どうしても、安くて、食べなれたカフェテリアのピザやハンバーガー、フレンチフライに戻ってしまう生徒が多いわ。私は毎日でもあなたのbentoが食べたいけどね。お昼をbentoにしてから、体の調子がとってもいいのよ」

「ありがとうございます。やはり、値段ですね……。実際に2週間目からの売上が落ちているんです。では、もう少し価格を抑えたメニューを考えますので、来週からも毎日売りに来てよろしいでしょうか?」

「ぜひお願いするわ。それから、次の卒業パーティーのケータリング、あなたのお店にお願いしたいの。詳しいことは、アメリアと相談してちょうだい。彼女の名刺よ」

「わあ、ありがとうございます。これからも、宜しくお願いします」

「ええ、これからはロビンと呼んでちょうだい」

 建物の出口で見送ってくれたロビンに手を振り、車を発進させた。スプリンクラーが動きだした花壇を横目に、ぐっとアクセルを踏み込んだ。次は、正晴の研究成果である子供の食と行動の研究を記載したパンフレットに関心を示してくれた児童養護施設との商談が控えていた。

 少しづつ、地域に浸透しているという感触があった。だが、実家のことを考えると、途端に心が沈んだ。店のスタッフは、自分が帰国しようかと悩んでいることなど、露ほども考えていない……。あたしが去っても店が機能するように、少しでもお得意様を増やしておこうと気持ちを切り替えた。


 コンボイストリートの店に戻ると、夕食どきということもあり、小さな店にはbentoを選ぶ客が5-6人見られた。

「あら、こんばんは、Kayo. 今夜は夫と映画に行くから、子供たちにbentoを買いにきたのよ。家政婦さんが作ってくれるものより、ずっと体にいいのよね。このbentoだと、野菜嫌いの子供たちも食べてくれるから助かるわ。お肉やお魚もとても美味しいわ」

「いつもありがとう、リズ。映画、楽しんできてね。ご主人と子供たちによろしく!」

「ええ、あなたもよい夜を。そうそう、今度ホームパーティーを開くんだけど、あなたのところのお惣菜も並べたいのよ。注文はどうすればいい?」

「ありがとうございます! このQRコードにアクセスして注文してください。メニューにないものも対応しますので、相談してくださいね」

「ありがとう。オーガニック派の私は、こういうお店をずっと待ってたのよ。じゃ、またね! 会えてよかったわ」

 レジでは、メキシコ人スタッフのクラウディアとフェルナンドが、巻き舌の英語で接客していた。相変わらずおしゃべりが多いのは、見逃すことにした。

 厨房に入ると、正晴が目を吊り上げて明日の仕込みに集中していた。隅で、帰国子女の広瀬ひろせさんが、流暢な英語でメキシコ人スタッフを叱責しているのが目に留まった。

「フアン、どうしてセリーナのところに野菜を取りに行かなかったんだ? 人参が足りなくなって大変だったんだぞ」

「いま、行ってきたじゃねえか。マーチンとこのほうが遠いから、そっちから先にまわるほうがいいだろ。そいで、ひでえ渋滞にひっかかっちまったから、セリーナのとこに行くのが遅くなっちまったんだよ」

「そういうときは、電話しろって言っただろ!」

「そんなこと聞いてねえな。番号忘れちまったし」

「どうせまた、どっかでおしゃべりしてたんだろう? だから、夕方の渋滞に巻き込まれたんじゃないか! どうして、いつもそう無駄なおしゃべりをしてくるんだ!」

 あたしは火花を散らす2人のあいだに割って入った。

「フアン、携帯に店の番号をいますぐ登録してください。今度から、渋滞に巻き込まれたときは、すぐに、必ず店に電話してくださいね。これはルールよ、わかった?」

「わかったよ」

「いつもありがとう、フアン。奥さんの具合はどう?」

「今、6ヶ月だよ。順調さ」

「よかったわね。大切にするように伝えてね」

「ありがとう、 Kayo!」

 フアンは、ようやく解放されたとばかりに、口笛を吹きながら仕込みに戻った。

 あたしは、広瀬を事務室に引っ張っていった。

「お疲れ様です。メキシコ人スタッフへの指示は、1つ1つ明確に出してくださいね。先にセリーナのところに行ってほしかったら、そう言わないとわからないのよ。早く野菜が欲しかったら、次の仕入れ先に行く前に、野菜を置きに店に戻ることも事前に言っておいてね。それから、彼らがスムーズに仕事をしないことを織り込んで、指示は早すぎるくらい早く出して、締め切りは少し早く設定するのが鉄則だといいましたよね。日本の常識で、仕事をしていたら、苛立つことばかりになるのがわかったでしょう?」

「おっしゃる通りです。しかし、メキシコ人は時間も約束も守らないし、言われたことしかやらないし、嫌になりますね」

「メキシコ人が、すべてそういう人というわけではないですよ。クラウディアとフェルナンドは、言い聞かせれば、きちんとやってくれるようになったでしょう。それから、彼らに指示を出したら、うるさがられない程度に確認をしてくださいね。帰りが遅かったら、こちらから携帯に連絡を入れてみてください」

「かしこまりました……」

 広瀬さんは、一応は納得した様子を見せた。だが、息を整えてから、腹に据えかねたという口調で切り出した。

「店長、フアンを解雇して、アメリカ人の奥さんの日本人とか、ビザの問題がない日本人を雇いましょうよ。フアンの奴、一昨日も遅刻して、モリスさんの高校のランチタイムに売りに行く時間に遅れたんですよ。売上が、がた落ちしたのはそのせいですよ」

「え、そうだったの!?」

「そうですよ。店長が契約とってきても、あいつを戦力にするとなると、いずれ、さばききれなくなります。考え直したほうがいいですよ」

「彼をクビにしても、新しいスタッフを育てるのに時間がかかりますよ。もう少し、様子をみましょう。苦労をかけて本当にごめんなさい。いつも、ありがとうね」

「わかりました……。俺、彼になめられてしまったようで、言うこと聞いてくれないんですよ」

 広瀬さんは、内臓まで吐き出しそうな溜息をついて出ていった。


                 ★

「広瀬くんは正しいよ。フアンはもちろん、フェルナンドもクラウディアも、俺たちをなめてるんだよ。俺は、彼らが時間通りに来るように、何度も携帯に電話を入れなくちゃならないのに辟易してる」

 食卓に並んだ店の残りのbentoをつまみながら、正晴がぼやいた。

「なあ、荷葉。帰国したい旨を本社に伝えて、君が抜けてもいい体制を早急に構築するべきだ。家族の介護なんだから君を責める人はいない。介護は、ほとんどの人に訪れるのだから君が悪いわけではない。すべてを自分で背負おうと思い詰めてしまうのは悪い癖だ。誰もそんなことを望んでないんだよ」

 正晴の言うことは正論だからこそ、かちんときた。

 店は代わりの店長がいればどうにかなるが、ばあばが待っているのはあたしだけだ。あたしが帰国するしかないのは十分にわかっている。だが、介護に専念するとしたら、今まで築いてきたキャリアを諦めることになる。そのことに寂しさと口惜しさを覚えることを、正晴が理解してくれないことが癇に障った。彼は、海外勤務から解放され、研究に戻れる。以前から望んでいた子供も持てるかもしれない。彼は何も失わないのに、どうしてあたしは多くを失わなければならないのか。

 今のあたしがあるのは、母代わりのばあばに育ててもらえたからで、彼女を介護するのは当然だ。そうしたいと心から思っている。それなのに、こんな醜い感情が湧いてくる自分が許せなかった。

「わかってる。ロサンゼルス店にいるメキシコ人スタッフの扱いに長けた後村あとむらさんに、サンディエゴ店の店長になってもらえるように、本社にお願いするから」

「後村さん……。やたら、荷葉にマウンティングしてきた奴じゃないか。確かに適任かもしれないけど、荷葉はそれでいいのか?」

「いいも悪いも、すぐに任せられるのは彼しかいないじゃない。本社から人を送ってもらっても、慣れるまでかなり時間がかかる。今は店のことを一番に考えなくてはならないでしょう」

「そうだな。俺もできるだけのことをするよ」

 正晴は神妙な表情を作っていたが、声には安堵がにじんでいた。そのことに、神経がささくれだった。いけすかない後輩に、子供のように育ててきた店を任せなくてはならない悲しみも手伝い、正晴に当たり散らしたくなった。

 そうならなかったのは、兄からの着信のおかげだった。

「お兄ちゃん! 何度もかけたんだよ」

「悪かった……。気分が落ち込んでて、出られなかったんだ」

「無理しなくていいよ。Skypeで話そうか?」

「すまない、パソコンの前に長時間座っているのがきついんだ」

「わかった。電話代かかるから、こっちからかけ直すね」

 あたしは寝室に入り、扉を閉めてかけなおした。

「お兄ちゃん、何も知らなくて本当にごめんね。いろいろ大変だったね」

「いや、俺こそ荷葉に心配かけて本当に申し訳ない」

「ばあば、どう?」

「完全に寝たきりってわけじゃない。ただ、親父も、ばあばを介助して風呂に入れたり、トイレの世話をするのが億劫で、声を荒らげることが多い。だから、ばあばは、皆に迷惑かけたくないって嘆いて、生きる気力をなくしてるんだ……。俺がもっと手伝えればいいんだけど、なかなか思うように体が動かない。こんなクズの自分が恥ずかしくて……、もう消えたい! 生きる価値がないのは、ばあばじゃなくて俺なんだよ!」

「お兄ちゃん、やめて!! お兄ちゃんも療養中なんだから、そういうことを考えちゃだめ。うつ病は、休養と服薬が大切なんでしょう。こういうときは、お父さんにもう少し頑張ってもらわないと」

 介護保険やホームヘルパーのことを切り出そうとしたが、兄を追い詰めることを考えて思いとどまった。海の向こうにいることが、何とももどかしかった。

「取り乱して、すまない。一日中、こういうことばかり考えてしまうんだ。ばあばのことは、俺もできる限りのことをするから心配するな。俺、調子のいいときは、結構いいんだよ……。ばあばも、俺と昔の話をするときは、生き生きしてる……」

「どんなこと話すの?」

「俺たちが子供のときのこと。おふくろが早くに死んだから、俺たちには、ばあばが母親代わりだったじゃないか。親父は、いつも苛々してて、気に入らないことがあると怒鳴ったり、殴ったり、卓袱台を蹴っ飛ばしたりしたから、俺たちいつもびくびくしてただろ? だから、学校から帰って、親父が帰ってくるまで、ばあばと過ごすときだけが寛げる時間だったじゃないか。ばあばの作った飯を食って、宿題を手伝ってもらったり、テレビみたり。その頃のことをよく話すよ」

「そう……。ばあばの作ってくれた料理は、素朴だけど美味しかったね。お弁当もうちの畑の無農薬野菜がたっぷりで美味しかった。私、アメリカに留学したとき、子供がピーナツバターのサンドとか、ファーストフードとか、栄養バランスの悪いランチを食べてるのを見て寂しくなったんだ。子供たちに、ばあばが作ってくれたような栄養バランスのいいお弁当を食べてほしいと思った。それが、今の仕事をしている原点」

「そうだったのか、初めて聞いたよ。そういえば、あの頃、ばあばが焚いてたお香の匂い、覚えてるか? 六種の薫物っていったかな。最初は、6種類の匂いがみな同じに思えた。でも、ばあばと聞香もんこうをしてるうち、2人ともいつのまにか6種類を嗅ぎ分けられるようになったな。俺、離婚して実家に帰ったとき、久しぶりにあの線香のような匂いに包まれて、すごく心が安らいだんだ。あの匂いは、ばあばと過ごした子供時代を思い出すからかな」

「聞香……。久しぶりにその言葉を聞いたな。お香の匂いなんか、もう何年も嗅いでないなあ。そんな余裕なかったし」

「そうだ、荷葉。ばあばが気に入ってた香立てとお香、荷葉に送ってほしいと言われたから、そっちに送ったぞ。そろそろ届くと思う。それを言おうと思って電話したんだ」

「え、ありがとう……。でも、何で?」

「ばあば、喉がいがいがすると言って、お香を焚くのをやめたから、荷葉に譲りたいんだろ。それと、言いにくいけど、荷葉に帰ってきてほしいんじゃないかな? 俺も親父も男だし、いろいろ恥ずかしいこともあるだろ」

 電話を切った後、ベッドに横たわり、3人で聞香をした日々に思いを馳せた。そういえば、アメリカの大学で源氏物語を英文で読んだとき、あのお香のうち、4種類が出てきたな。何だったかな? 黒方、梅花、侍従、それから荷葉。あたしの名前は、そこからもらったと言ったら、皆に注目されたっけ……。あのとき、皆にお香の匂いをかがせてあげられなかったのが残念だったな。そんなことを考えているうち、メイクも落とさずに眠りこけてしまった。

                ★

「そういうことなので、図々しいお願いで申し訳ございませんが、後村さんをサンディエゴ店にください。本社は、和泉いずみさんがいいなら、問題ないそうです。本人には、本社から辞令が出るそうです」

「了解。辛いわね」

 ロサンゼルス店の和泉店長は、黙って話を聞き、理解を示してくれた。

「ねえ、荷葉の話を聞いて改めて思ったけど、女って本当にいろんなものを背負ってるよね。子供は女しか産めないし、育児も授乳とかあるから、大抵の場合は女が多く負担しなくちゃならない。介護も、よほど恵まれた環境にない限り、荷葉みたいに女にその負担がきてしまうのが現実。そういうハンディがあるのに、男は退職したり育休を取得する女を見て、これだから女は信用できないとか甘えてるとか思ってるんだろうね。口に出さなくても、腹の中で。私みたいに一人もので、しがらみのない女も、同じように見られちゃうのかな……」

 あたしのせいで彼女にも厳しい目が向いてしまうことをほのめかされ、憮然とした。

「今回は残念だけど、いつかまた一緒に仕事できるといいね! まあ、女がフルタイムで仕事続けるには、私みたいにシングルで、親に依怙贔屓えこひいきされてた姉が同居してくれてるようないい条件がないと難しいのかもね……。これは運みたいなものかもしれないけど」

 取り繕おうとする彼女の言葉に、余計に傷つけられたが、その感情に蓋をした。

「いろいろご迷惑をおかけして申し訳ございません。サンディエゴ店のことも、どうか宜しくお願いいたします」

「もちろん。サンディエゴまでは車で1時間と少しだし、頻繁に覗きに行くよ。後村くんに鬱陶しがられても、ちゃんと見てるから、任せて!」

 かつて一緒に夢を見た先輩と、途轍もなく心の距離が開いてしまったことに寂しさを感じながら受話器を置いた。

                 ★

「最後に、現時点で、毎日ランチタイムにbentoを売りにいくのは、ミセス・モリスのハイスクールのみです。ケータリングの注文を受けている分は、このファイルに入っています」

「かしこまりました。他に心掛けておくことはありますか?」

「ここは、アジア系の店が集中する通りなので地の利はありますが、リトルトーキョーのように観光客は来ません。リピーターになってくれる地元のオーガニック層やアジア系のお客様を大切にしてください。オーガニック層が多い地域は、この地図に示してあります」

「なるほど、わかりました」

 後村さんは、事務室の壁に貼られた大きな地図の前に腕組みをして立った。

「Kayo, モリスさんのハイスクールに行ってくるよ」

「あ、フアン、今日は私たちが行くわ。店を手伝ってくれる?」

「後村さん、ハイスクールのランチタイムに売りにいくので、手伝ってください。校長に新しい店長だと紹介したいので」


 ハイスクールの敷地に車を止め、後村さんと2人でbentoをカートに乗せてカフェテリアに運んだ。若者のbentoなので、ボリュームを重視し、肉、魚、野菜をバランスよく詰め、価格は$7に抑えた。

 カフェテリアには、ファーストフード特有の油の匂いが充満していた。ハンバーガーやピザ、サンドイッチ、フレンチフライやソーダを売るメインカウンターに向かう生徒が多いが、体型を気にする女の子、アジア系の子などが、次々とbentoを買いに来てくれた。

「Kayo!」

「ロビン! いつもありがとうございます」

「今日はフアンじゃないのね」

「ええ、今日は残念な話をしなくてはいけません。あたし、来週帰国することになりました。彼は新しい店長のKaiです。これからも、どうか宜しくお願いします」

「はじめまして、Kaiです。これから、宜しくお願いします」

 後村さんと握手を交わしたロビンは、あたしに向き直った。

「随分急なのね」

「ええ、祖母の介護をしなくてはならないので。これからも、bentoを宜しくお願いします。Kaiに何でもお申し付けください」

 ロビンは慈愛に満ちた瞳をあたしに向けた。

「そうだったの。お店は他の人でもできるけど、家族はかけがえのないものよ。あなたの選択は間違ってないわ」

 こみ上げてくるものを抑え、ロビンとハグをした。世界のすべてに責められているような状況にいるなかで、彼女の理解に慰められた。

「Kayo, また会えるといいわね」


 店を任せると、後村さんは、日本語訛りの英語でメキシコ人スタッフにてきぱきと指示を出し始めた。ロサンゼルスで覚えたらしいアメリカンジョークを連発し、彼らを笑い転げさせた。若い広瀬さんは、後村さんと気が合うようで、兄貴分のように慕い始めた。後村さんが加わったことで、心なしか店の空気が変わった気がした。

 あたしは店に常連のベトナム系の親子が来たのに気づき、彼らに別れを告げるために出ていった。フアンとクラウディアが、メキシコ人の客にスペイン語で接客する声を背中で聞きながら、来週には日本にいることが現実ではない気がした。

 大切に育ててきた店が自分の手を離れていくことに、手足をもぎ取られるような痛みを覚えた。だが、どうにか地域に根を張ってほしいという思いのほうが勝っていた。

  

 明日の仕込みを終え、事務室で正晴と書類の整理をしていると、後村さんと広瀬さんの話声が聞こえてきた。

―夫婦で赴任してきたのも、すごい人事ですけど、そこまでしてもらって帰国するのってどう思います? 女性だから、特別扱いされてますよね。

―俺くらいの年齢になると親の介護は現実問題だから他人事と思えないよ。まあ、俺は彼女が辞めたおかげで、店長が回ってきたからな。

―後村店長が来てくれてよかったですよ。あの2人、アメリカで子供つくるつもりで、夫婦で来たんじゃないですか? そうしたら、育休とか時短勤務とか申請して、俺たちが尻拭いさせられるとこでしたよ。


「あいつら、何を!」

 あたしは、キッチンに入っていこうとする正晴を渾身の力で押さえた。

「正晴はこれからも彼らと働くんだから、波風立てないで。もう帰ろう……」

               ★

 正晴と夕食を取ったあと、ぐったりと疲れた身体に鞭を打って荷造りを始めた。衣類や化粧品、細々としたものはすぐにスーツケースに収まってくれた。正晴が帰国するとき楽になるように、処分できるものは処分してしまおうと、ゴミ袋を抱えてきた。

 ノックの音がして、正晴が小さな箱を差し出した。

「お義兄さんから荷物届いてたよ。ロッカーから出してきた」

「ああ、ありがとう」

 すぐに持ち帰ることになるけれど、帰国前に受け取れてよかったと、包みを開けた。くるまれていた新聞紙をとると、蓮の花を模った香立てがでてきた。微かについていた灰から、お線香のような匂いがした。

「懐かしいな……」

 着物姿のばあばが、これにスティックタイプのお香を立て、毎日マッチで火をつけていた。

 箱のなかには、長方形のお香の箱も入っていた。

「荷葉か。もう、どんな匂いか忘れちゃったな」

 箱を開けてスティックタイプのお香を1本取り出し、香立てにさした。正晴のライターを持ってきて、火をつけてみた。

 煙が流れ、線香を思わせる香りが鼻をついた。香りが安定してくると、夏らしい荷葉の香りに全身を優しく包まれた。

 ばあばの庇護のもとで日々を過ごせた記憶が、時系列をなさずに浮かんでは消えていった。尖っていた神経が鎮められていくのがわかった。悔しさ、怒り、寂しさ、嫉妬……。胸に巣食った負の感情が浄化されていき、気がつくと涙が頬を伝っていた。あたしは、間違った選択をしていないと初めて思えた。

(完)