ピアノを拭く人 第1章 (11)
手を伸ばせば金色の月に届きそうな夜だった。
閉店時間を過ぎたフェルセンの出窓から明かりがもれ、誰かがいることが伺える。耳を澄ませても、ピアノの音は聞こえず、かすかに響くのは虫の音だけだった。
車から降りた彩子は、暫しその傍らにたたずんでいた。このまま家に帰るか、偶然近くまで来たと言い、店に入るかで逡巡した。
迷った末に、店の入り口に向けて足を進めた。
静かに扉を押すと、店内はいつもより明るく、煌々と輝く照明が暗闇に慣れた目にまぶしい。目が慣れると、ピアノに近いテーブルの上に、白い紙とペン、ウエットティッシュが散らばっているのが見えた。
「トオルさん!?」
彩子は、テーブルの傍らに、トオルが大の字になって横たわっているのを見て、慌てて駆け寄った。周囲には、白い紙が散乱している。
トオルは、弾かれたように立ち上がり、緩めたネクタイを忙しなく直した。
「水沢さん、どうなさいました?」
トオルの目元には疲労がにじみ、マスクをしていても、顔色が悪いことが読み取れる。
「あ、ええと……」
「何か忘れ物ですか?」
「いえ、近くを通りかかったら、明かりがついていたので、もしかしたらトオルさんがいらっしゃるかと思ったんです。私、あの夜のお礼を申し上げたくて……」
彩子は息を整え、一気に続ける。
「遅くなってしまいましたが、本当にありがとうございました。トオルさんの伴奏は、私がどう歌いたいかを瞬時に読み取ってくれて、本当に気持ちよく歌えました。トオルさんのピアノに乗って歌うことで、押し込めていた感情を解放できました。自分があんな状態になるなんて、想像もしていませんでした。でも、ずいぶん楽になりました。いい歳をして、見苦しいところをお目にかけてしまい、申し訳ございませんでした……」
「いえ、恐縮です。ありがとうございます。僕こそ、余計なことをしてしまって、申し訳ございませんでした……」
謝罪を続けようとするトオルを制し、彩子はたたみかける。
「そんなふうに謝らないでください。トオルさんのおかげで、あんなふうに感情を解放できたんです。いい歳して泣いたりして、お手を煩わせてしまったのは私です」
「恥ずかしいところを見せてしまったのは、僕も同じです」
トオルは、ウエットティッシュで手を拭きながら、足元に散らばっている白い紙に、自嘲気味に目を落とした。
「何か書いていたのですか?」
「はい。手紙を書いていましたが、もう疲れ果ててしまったんです」
トオルはテーブルの椅子に、どさりと腰を下ろした。
彩子は少し迷ったあと、向いのテーブルの椅子にかけた。
「大切なお手紙なのですね……」
「いえ、意味のない手紙です。むしろ、もらった人が困惑するような」
「それなら、どうして、そんなに丁寧に……?」
彩子は、辺りに散らばる白い紙に目を落とした。便箋と思われる縦線の入った紙には、鉛筆で下書きした後、その上をペンでなぞった形跡がある。
「去年から、過去に人に迷惑をかけて謝らなかったこととか、親切にしてもらったのにお礼を言わなかったことが、すうっと頭に侵入してきて、離れなくなって、居ても立ってもいられなくなったんです。気になって、気になって、そのことしか考えられなくなって、苦痛で。そんな気持ちを抱えて生きるのに耐えられずに、手紙で謝ったり、お礼を伝えたりしてしまうんです。本当はそんなことしたくないんです。とっくに切れている人間から、10年以上前のことで手紙がきても気味悪いだけだとわかっているんですが、そうしないと自分がどうにかなってしまうんです」
トオルは憑かれたように話し続けた。今夜の彼には、親しくない人間に知られたくないことを話す恥ずかしさなど通り越し、助けを求めるような切迫感がある。
「だから、手書きで、丁寧に……?」
「目上の人への手紙は手書きで書くべきと聞いたので……。まず、文面をつくるのに何日もかかるんです。いざ、書き始めると、字が汚いこと、大きさが不揃いなこと、はねや止めなどが正しく書けないのが気になって、気になって……、何枚書いてもうまくいかなくて。手が痛くなって、書きやすいペンを探して、何度も書き直して……。それでも、うまくいかなくて、鉛筆で下書きをして、その上をなぞってもうまくいかないんです。字の大きさが揃うように定規を使って鉛筆で薄くマスを書いても、うまくいかないんです。そんなことをしていると、手の汗で便箋がよれてしまい、結局だめにしてしまうんです。家で書いていると、行き詰ってしまうので、ここで書いていたのですが、この有様です」
「手書きで完璧な手紙を書くことは誰でも難しいと思います。多少、字が汚いところがあっても、目をつぶって出してしまっていいと思います。相手は気にもしません」
「わかってはいるんです! でも、出した後、そのことが気になって、気になって、僕がおかしくなってしまうんです。そのために、便箋を何枚無駄にしたかわかりません!」
トオルは息を整えた後、「大きな声を出してすみません」とつぶやいた。謝罪を繰り返す気力さえなくしているように見える。
「気にしていません。お辛いことがあったら、どんどん話してください。トオルさんが歌うことを勧めてくれて、私はずいぶん楽になりました。だから、私に遠慮なんかしないでください! 物言いが失礼でも、声が重なっても、謝らなくていいんです」
トオルは驚いたように彩子を凝視した。彼の目の下のクマが痛々しく、その憔悴ぶりに彩子は居たたまれなくなった。
「手紙が書けたら、今度は封筒を仕上げるのが大変で……」
トオルは消え入りそうな声で続ける。
「相手の住所や郵便番号、宛名、自分の住所や名前がうまく書けなくて。定規で封筒の幅を測って、名前が中央に来るように、字が曲がらないように、鉛筆で線を引いたり。鉛筆で下書きをして、その上をペンでなぞったり。ようやく納得のいく宛名が書けたら、今度は切手がうまく貼れないんです。切手が曲がってしまったり、正しい位置に貼れなかったりで、せっかくうまく書けた封筒を無駄にしてしまうんです。封筒や切手も、どれだけ無駄にしたかわかりません」
彩子は、そこまで見る人はいないという言葉を飲み込んだ。いまの彼は相手がどう思うかよりも、自分が楽になることを優先せざるをえないほど追い込まれた精神状態なのだ。
「封筒ができたら、今度は手紙をぴったりと折りたためるか、正しい向きで封入できたかが気になって。それが済むと、封筒の口をきれいに折れない、うまく糊付けできない、封締めのマークがきれいに書けないとかが出てきて……」
「でも、それがすべて済めば、解放されるのですよね?」
トオルは力なく首を振る。
「また違う記憶が、すっと頭に侵入してくるんです。耐えられなくなって、手紙を書いての繰り返しで……。手紙を何度も書き直して、腕がぱんぱんになって、ピアノを弾くのもしんどいんです。お客様がリクエストしてくれた曲を練習しなくてはならないのですが、その余裕もなくなってしまって……」