連載小説「クラリセージの調べ」5-9
裕美のブログに書かれた「最愛くんの奥様」は時間が経っても頭に残り、ふと思い出して不愉快になる。いっそ、反論コメントを投稿してやろうかと何度思ったかわからない。自分がネットに嫌な投稿をされてみると、身に覚えのない誹謗中傷を書かれ続けるすずくんが、どれほど傷ついているかと心配になる。あのような書き込みが就職活動にどれだけ影響を及ぼすのだろうか。
北風は傷だらけの心を切り裂くように冷たい。白っぽい空を見上げると、陽は分厚い雲の隙間からうっすらと差すだけだ。洗濯物は乾きそうにない。庭の物干しに吊るしたピンチハンガーを浴室に移そうと手に取ると、今朝干したブラジャーが一つなくなっている。2週間ほど前にも同じことがあり、風に飛ばされたのかと周囲を探したが見つからなかった。ご近所に飛んでいったかと思ったが、ものがものなので尋ねられなかった。強風でハンガーが飛ばされるのはあり得る。だが、洗濯ばさみで止められたブラジャーが外れて飛んでいくのかと釈然としないまま、下着は浴室か、布団干しにしか使わないベランダに干すと決める。
部活指導で北風にさらされる夫のために、夕食は身体が温まる鍋にしようと思い立つ。野菜を刻み、鶏つくねを作るために材料をボールに入れて混ぜているとき、玄関のチャイムが鳴る。
鶏ひき肉と粉、すりおろし生姜にまみれた手を洗い、モニターを見ると、義父が映っている。先日、義母が車を使っているので、義父がおじいちゃんの薬を取りに行けず、私が薬局に乗せていった。助手席から注がれる粘着質な視線が嫌だったので、また頼まれたら代わりに取ってくると言おうと決める。
「忘年会の料理のことで相談があるんだが、ちょっといいかな?」
「はい……」
ドアを開けると、義父は持っていたルピシアの黄色い袋を見せる。
「これを淹れてくれないか。好きだろう?」
私が常用しているレモングラスとペパーミントの香る「キケリキー!」というハーブティー。なぜ義父が知っているのか不思議だ。
嫌だなと思ったが、断るのは角が立つのでリビングに通す。義父に気付かれないように、キッチンテーブルに置いたスマホの録音機能をオンにする。
電気ポットから注いだお湯にティーバッグを浸し、昨日焼いたクッキーと一緒に出す。キッチンに戻り、夕食の準備で忙しいことをアピールしようと、つくね団子を丸める手を止めずに話しかける。
「忘年会はいつになるのですか? 凛太郎くんも加わって、にぎやかになりそうですね」
「23日か24日を考えているんだよ。去年は、絹の妊娠のお祝いが忘年会みたいなものだったが、今年は本当の忘年会だね」
「あれから、もう一年ですか……」
私が授かれないことで市川家を不完全にしてしまっている居心地の悪さが、さざ波が寄せるようによみがえる。この一年で、いろいろ前進したように思えるが、結局同じ場所にいる。変わったのは、夫への信頼感と、この人の子供が産みたいという気持ちかもしれない。
「今日は鍋かい?」
「はい」
つくねを丸め終えた私は、手を洗いながら返答する。先ほどから背中に感じるねっとりとした視線に虫唾が走る。
「あのときも鍋だったね」
「ええ、紬さんが鍋も材料も準備してくださいました」
「それよりも、あなたのすまし汁は本当に美味しかったよ」
さっさと要件を片付けようと、義父と向かい合わせのソファに腰を下ろす。
「ありがとうございます。忘年会のお料理の話でしたよね?」
「うん。ところで、まだ子供はできないの……?」
義父は私の返事を待たずにソファから立ち上がると、目をぎらぎらとさせ、私の隣に腰を下ろす。全身に悪寒が走り、咄嗟に立ち上がると、両腕を荒々しくつかまれ、ソファの背もたれに叩きつけられる。両肩を押さえつけられ、ソファに片膝をついた義父のしみの目立つ顔が迫ってくる。義父の手を振り払おうと身体を激しくよじらせても、びくともせず、さらに力を込められる。
「あんた、できないんだろ?」
義父は私の身体をソファに押し倒し、馬乗りになって肩をぐっと押さえつける。義父の息遣いが獣のように荒くなり、水気のない身体から熱気が発せられる。想像を凌駕するおぞましいものを目の当たりにし、全身が震えだす。
「だったら、一回くらい、いいだろう! あんたの下着を見て、年甲斐もなく欲情しちまってるんだよ。孕めないあんたの価値なんて、それくらいしかないんだから、少しは役に立て!」
「お義父さんだったんですか!! ばかにしないでく……」
大声を出そうとすると、義父のかさついた手が私の口を押さえつける。
「できちまったって、結翔と俺は血がつながってるんだからわかりゃしない! ずっと堪えてきたんだ!!」
ひび割れ、熱を持った唇が、私の唇に押し付けられ、絞め殺される家畜のような声が出る。
「本気で言ってるんですかっ!!」
義父が大声に怯んだ瞬間、自分でも驚くほどの力で義父を突き飛ばし、家を飛び出す。もつれる足で、よろけながら進む。ここから離れたい! 自分の車が目に入ると、鍵を持っていないことに気付き、崩れ落ちるように足が止まる。コンクリートに膝をつき、肩で息をしながら振り返ると、母屋から往診を終えたすずくんが出てくる。
「すーちゃん?」
肩で荒い息をし、尋常ではない形相の私を見て、彼はコート型の白衣を翻して近づいてくる。
「靴も履かずにどうしたの? 真っ青だよ」
答えようとするが、唇が痙攣し、息が苦しくて言葉が出ない。心臓は口から飛び出しそうな速さで打ち、手足がしびれ、全身の鳥肌が収まらない。息苦しく、頭が真っ白だ。
「過呼吸起こしてるかな」
彼がしゃがみこんだとき、義父が離れからそそくさと出ていくのが目に入る。
「家に入って落ち着こうか」
すずくんに助け起こされ、支えられて離れに入る。彼は私をリビングのソファに座らせ、自分は前にしゃがみ込む。この場に戻ると、義父の手の感触がフラッシュバックし、息苦しさが強くなる。
すずくんが、いつもより低く穏やかな声で畳みかける。
「大丈夫だから落ち着いて。大きく息を吸って、ゆっくりと吐いてみようか。そうそう。もう一度、大きく息を吸って、ゆーっくり時間を掛けて吐いて。今度は腹式呼吸にしてみよう。お腹にたくさん空気をためて、一度息を止めて。ゆーっくりと吐いて……」
すずくんは私が落ち着くまで、辛抱強く声をかけ続けてくれる。何度も繰り返しているうち、いつもと同じように呼吸できるようになる。周囲を見る余裕が出てくると、テーブルの上に残されたハーブティーのカップが目に入り、さっきの感触が鮮烈によみがえる。
「ここにいたくない」
「え?」
「さっき、あっちのソファでお義父さんに、子供ができないなら、一回くらい、いいだろうって。必死で逃れて、外に飛び出して……」
すずくんの目に厳しい光が射す。
言葉にすると、再び心拍が上がり、息苦しくなる。
「ここに……いたくない。いるのが怖い」
ふらふらと立ち上がり、車の鍵とバッグを持つ私をすずくんがソファに座らせる。
彼は私の脚元にしゃがみ込み、視線を合わせる。
「わかった。でも、今の状態で車を運転するのは危険だ。俺がビジネスホテルかマンスリーマンションに送り届けるから」
「ありがとう……。ごめんね、迷惑かけて。あの人を家に入れたのがバカだった。自業自得だね」
すずくんは中腰になって私の両肩をつかみ、視線を合わせると、ゆっくりと穏やかな声で語りかける。
「すーちゃんは何も悪くない。何も悪いことをしていないんだから、堂々としていればいい。今も、これからも、自分を責める気持ちが出てきたら、俺の言ったことを思い出して」
すずくんの眼鏡の奥の力強い眼差しを見ていると、布に水がしみわたるように言葉が胸に広がる。医師としての力量を目の当たりにし、やはりすごい人だと思う。
彼は私が正気になったのを見て、思い出したように尋ねる。
「そういえば、監視カメラつけてたよね?」
私がカーテンレールの上を指さすと、すずくんは頷く。
「スマホにダウンロードしたアプリで、記録した映像が見られるよね。見たくないと思うけど、それは必ず保存しておいて」
「うん。あ、スマホの録音機能もオンにしたまま……」
「それも証拠になるから保存したほうがいいな。必要なものを持ったら行こう」
私を駅前のビジネスホテルに送り届けたすずくんは、部屋を取れるまでロビーで待っていてくれる。
「まだ、往診が残っているから行くけど大丈夫?」
「大丈夫。ごめんね、お仕事中なのに迷惑かけて。本当にありがとう」
「全然気にしなくていいよ。7時には上がれると思うから、大丈夫ならメシでも食おう。仕事が終わったらLINEするよ」
★
「どうしてこんなことになってしまったのか、ずっと考えてた……」
すずくんのハイエースの助手席で、流れていく街の灯りを横目に吐露してしまう。
「お義父さんの気味悪い視線は、顔合わせのときから気づいていた。それからも、露骨な行動はなかったけれど、いやらしい視線や言動は続いてた。夫がお義父さんをとても尊敬しているから、悪口を言って怒らせて信頼関係が崩れるのが怖くて、相談できないままだった。もっと早く、勇気を出して夫に相談していたら、こんなことにならなかったと思う……。私がお父さんをもっと早く問いただして、拒絶の意志を示していたら、こういうことにならなかったかも。今日のことは、もうなかったことにできない……」
ハンドルを握っているすずくんは、力のこもった声で話し出す。
「さっきも言ったよね。すーちゃんは何も悪いことをしていない。経緯はどうであれ、お義父さんのしたことは明らかに狂ってる」
「でも、何かが違っていたらと考えてしまうんだよね」
コロナ明けの忘年会シーズンらしく、全身に解放感をまとう人々を車窓から見ると、別世界の人々に映り、目をそむけてしまう。
赤信号で止まったすずくんは、マスクの中でかすかに頷く。
「そう考えてしまうのはわかるよ……。俺も、例の建築士との件で、俺がどこかで違う対応をしていたら、ああならなかっただろうと何度も考えた。俺が彼をおかしくさせた、意図せずも彼の人生を台無しにしてしまった、彼と出会わなければと今でも苦しくなることがある……」
すずくんはアクセルを踏みこむタイミングと重ねるように声を絞り出す。
「それでも、時間は流れ続けて、明日が来るだろう。だから、それに身を委ねて、やるべきことに全力で向き合うしかないんだ……。そうして、人生を進めていく……」
「時間は取り戻せないからね」
リビングのカップも、キッチンの鍋の材料もそのままに、私がいなくなった家を見れば、帰宅した夫はわけがわからないだろう。
「二時間ほど前に、夫にLINEを送ったの。『しばらく、家を離れます。理由はお義父さんが御存じです』とだけ書いて。そしたら、さっき返信が来て、『親父は、子供の話でちょっとした行き違いがあったけど、きついことを言ったわけではないと言ってる。へそを曲げないで早く帰って来て』。お義父さんを信用するのは仕方ないけど、私に何があったのか一言も聞いてくれない……」
「何があったのかをきちんと伝えて、動画も見てもらったほうがいいよ」
「そうだね……」
そのことが父親を尊敬する夫を傷つけ、関係を変えてしまうかもしれないことに申し訳ない気持ちが湧いてくる。私がいなければ、こんなことは起こらなかった。だが、それを聞かされるすずくんを慮り、欠け始めた月に思いを溶かす。
春先に行った料亭に着くと、仲居さんが奥の落ち着いた個室に案内してくれる。予めすずくんが手配してくれたのか、消化が良さそうな鍋焼きうどんと蒸し野菜、果物が運ばれてくる。料理を出し終えてから、仲居さんは入室しないでくれる。
「看護学校、合格おめでとう。遅くなってごめんな」
「ありがとう」
烏龍茶のグラスを合わせると、すずくんを避けていたことへの後ろめたさが胸に渦巻く。
「すずくん、今日は本当にありがとう。いろいろ迷惑かけて、ごめんね。今日だけじゃなくて、おじいちゃんの具合が悪くなった時もお世話になったのに、夫が失礼な態度取らなかった? すずくんが、私に協力して、ファミレスで話し合いの場を作ってくれたでしょう。あのときから、夫がすずくんを敵視するようになったと思う。私と関わらなければ、いやな思いしないで済んだのに……。本当に申し訳ないです」
すずくんは、鍋焼きうどんを食べていた箸を置き、真摯な眼差しを向ける。
「俺は迷惑だと思ったことないよ。ようやく借りが返せたと思ってる」
「借り?」
すずくんは、眼鏡をかけていなかった中学時代を彷彿させる少年のような瞳になる。
「中二のとき、俺が生徒会長に立候補しただろ? そのとき、投票用紙だった候補者名が印刷されたプリント覚えてる? それを回収した担任が、候補者名の横の小さな四角に丸を付けるのに、候補者名を囲んでいる用紙を見つけた。担任が、無効票になってしまうから、心当たりのある者は書き直せ、囲み方から見て几帳面な女子に見えると言ったけど、しばらく誰も名乗り出なかった。そしたら、前の席に座っていたすーちゃんが、『すみません、多分私です』と手を挙げて、丸を付け直してくれた。本当はすーちゃんじゃないだろうなと思ったよ。すごく勇気がいったと思う。あれ、マジ嬉しかった」
「言われてみれば、そんなことあったかな……」
クラスの男子が『すずへの一票もなくなっちゃうぜー!』と茶化し、すずくんがムンクの『叫び』のような顔芸をしたので、心当たりはなかったが勇気を振り絞って手を挙げた。すずくんに憧れるばかりで、言葉さえ交わせなかった私が、彼の目に留まりたくてしたことだ……。
「あのとき、生徒会長に立候補した俺とナオユキは接戦と言われてて、30票弱の僅差で俺が勝った。だから、一票がとても貴重に思えて、すーちゃんの行動が嬉しかった。それをどう伝えていいかわからないまま、卒業してしまったけど、ようやく言える。あのときは、ありがとう」
「そんな昔のこと、覚えてないけど、少しでもお役に立てたなら……」
20年以上の時を経た思いやりに心がじんわりと温かくなる。何よりも、彼があのことを覚えていてくれたのが嬉しい。
「一年のときも同じクラスだったけど、すーちゃんはからかわれたり、避けられたりしてた奴らにも自然に接してただろ? 岩崎を説得して、仲間外れにされている女子を同じグループに招き入れていた。口数が少ないのに、芯が強くて思いやりのある子だなと一目置いてた。
その姿を見て、学級委員なのに率先してイジメや仲間外れをしている自分が恥ずかしくなった。担任が、うちのクラスはまとまりがあって、イジメもない良いクラスだと学級委員の俺と岩崎を褒めた。けど、本当に褒められるべきは縁の下の力持ちのすーちゃんだと思った。
すーちゃんは俺を軽蔑してると思って、恥ずかしくて話せなかったけど、尊敬してたよ」
「え、そうだったの? すずくんは、先生にもクラスメイトにも一目置かれて、いつもきらきら輝いてて、すごく憧れてたよ。私みたいに、ぱっとしないのには関わりたくないと思って、話しかけられなかったんだよ。今のように話せるようになるなんて、夢にも思わなかった」
「マジで? 俺、てっきり軽蔑されてると思ってた」
互いに気恥ずかしさをうやむやにするように、熱々のうどんをすすっていると、私のスマホが振動する。
「市川のお義父さん……」
義父のナンバーが表示された画面を見ていると、にわかに心拍が上がっていく。
「俺が出ようか?」
「大丈夫」
意を決して応答すると、覇気のない声が耳に入ってくる。
「さっきは申し訳なかった。謝罪と説明がしたいので、明日会ってくれないだろうか……?」
「少々お待ちください」
電話を保留にし、すずくんに尋ねる。
「お義父さんが、明日会いたいって言ってるの。二人で会うのは怖いから、立ち会ってくれる? 瑠璃子にもお願いしようと思う」
すずくんと二人だと、変に勘繰られそうなので、できれば瑠璃子にもいてほしい。
「俺は19時以降なら大丈夫。駅のスターバックスはどう?」
「いいね。19時30分にしよう」
友人立ち会いで、明日19時30分という提案を義父は受け入れた。電話を切ると、すずくんが小さなジップロックに入った錠剤を取り出す。
「安定剤と睡眠薬を持ってきたから、必要なら使って。俺もたまにお世話になってる……」
これから、夫との関係がどう動くかはわからない。乗り切るためにお世話になるかもしれないと思い、御礼を言って受け取る。