コラボ小説「ピンポンマムの約束」7
本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。
※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。
カウンセリング室に入ると、窓の向こうで咲き誇るハナミズキに目を奪われた。だが、ハナミズキの木はキリストをはりつけにした十字架に使われたという話を不意に思い出し、教会が連想されてぞくっと悪寒が走った。集中しなければと、向かい合っている米田心理士のストライプのシャツに視線を移す。そういえば、この先生はいつもシャツの袖をまくっている。
「おっ……、頑張りましたね」
老眼鏡をかけた米田先生は、あたしの提出したシートに目を走らせながら、含み笑いをもらす。
「だいぶたくさんのスタッフに世話をやかれたようで、かなり◎がつきましたね」
「あれだけやられたら、逃げ場がないですよ。海宝さんは、忙しいけどあたしの処置は最優先だとアピールするし、看護助手さんはあたしに温かいものを届けたいから食事やお茶を最初に配ったとか、入浴の順番を先にしたとかしつこく強調してくるし……。海宝さんが休みの週末に担当してくれる看護師さんまで同じことをしてきて、用がなくても、何か困ったことはないかとのぞきにくるんですよ。ぞわぞわして心休まる暇もありません」
「それから、金先生のケーキ攻撃ね」
海宝さんが意味深な笑みを見せる。
「それ、爆笑しましたよ。金先生グッジョブです!」
思い出し笑いがこみ上げてきた米田先生は、血色のよい顔をさらに赤くし、肩を揺らして笑う。
「米田先生だって、出かける時間が迫ってる若い先生に、あたしを病室まで送らせたじゃないですか! ああいうの勘弁してくださいよ」
額に青筋を立てるあたしに、先生は意味ありげに続ける。
「爽やかイケメンに送られて、いいエクスポージャーになったんじゃないですか?」
「まあ、そんなことがあったの? 私も送られてみたいわぁ」
せめてもの反発で、内臓を吐き出しそうなほど大きなため息をもらしてやる。
「だいぶ、世話をやかれることに慣れたでしょう?」
「断ったり、拒んだりするのは失礼だし……」
「人に何かしてもらうたびに、ぞわぞわしていたら、生き辛いでしょう。この課題は、このまま継続しましょう」
眉間に皺を寄せながらも、あたしは前よりも、罪悪感に駆られて、ぞわぞわしなくなったと気づいた。自分のなかの変化を掘り当てたことにはっとし、嬉しいような気恥しいような居心地の悪さを覚える。
「さて、対策を考えなくてはいけないこともありますね」
仕切り直した先生は、老眼鏡を額に上げ、あたしと視線を合わせる。
「以前、私と海宝さんを呪う課題に取り組んでいただきましたね。強迫観念から逃げていると余計に恐ろしくなるので、敢えて受け入れて浸れば、怖くなくなることを学習していただきました。ただ、紫藤さんは2人が大丈夫か、確認を続けていましたね」
「ええ、まあ」
「それを続けていると、確認しないと安心できなくなってしまいます。ですから、次の課題として、一つ一つに思いを巡らせたり、確認することを防ぐために、呪う対象を広げていただきました。それが、院内を歩き回り、目についた人を呪う課題でしたね」
「はい。最初は結構うまくいってたんです。でも、おじいちゃんに転べと念じたら本当に前のめりになってしまったり、外来で見かけた泣いている小学生を車にひかれろと呪ったら彼女と目が合って怖くなったり、いくつか頭から離れないことができて……」
「たくさんの人を呪っても、特に気になる人ができて、頭から離れなくなってしまう?」
「そうです。そのイメージを消そうと、どんどん他の人を呪ってみても、同じように気になる人は出てこないんです……」
米田先生は、あたしが言葉足らずに訴えることを端的に言い換えてくれる。波長が合った流れに、あたしの舌も滑らかになる。
「気になることを増やしても、特に気になることは頭から離れず、どこまで増やせばいいのかわからず、パニックになってしまう?」
「そうなんです、まさに……」
「紫藤さんは、そういうとき、どうしたらいいと思いますか?」
見当がつかず、小首を傾げるしかないあたしに、先生は提案する。
「前も言いましたが、強迫の方が陥りやすい状態です。そんなときは、気になることをそのままにできたら一番ですが……。難しければ、2つ、3つなど予め回数を決めて気になることを広げてみるのはどうでしょうか」
「……」
どちらもハードルが高そうで即答が難しい。
「千秋さん、相変わらず強迫観念が浮かんで、悩まされているのよね?」
海宝さんが米田先生の机上に置いてあるシートをのぞきこむ。毎日、何時頃どんな強迫観念が浮かんだかを記録するシートだ。
「はい……」
「強迫観念が浮かんでから気にならなくなるまで、どれくらい時間がかかるの?」
「浮かぶ内容によって違います。いろいろ考えて大丈夫だと確認できた観念や、たいしたことのない観念は、苦しむだけ苦しんだ後で消えていきます。数時間とか、数日とか期間は観念によって違いますけど……。後で、再びその観念を思い出しても、最初に浮かんだ時のようには苦しめられません。でも、どうにもならない大きな観念には、とても長く苦しめられます」
「最長でどれくらい気になっていたの?」
「一か月くらい気になっていたこともあります。すごく苦しかったです。そういう観念には、手首を切るぐらい追い詰められます……」
あたしの発言がもたらした沈黙に拍車をかけるように、すっと陽が陰り、空気を重くする。廊下を行く清掃ロボットの機械音が近づき、遠ざかっていく。
「苦しむだけ苦しんだら、観念は消えていくのですね?」
米田先生が、海宝さんの意図を察し、沈黙に寄り添う穏やかな口調で尋ねる。
「ええ、まあ、だいたいは……」
「それでは、特に気になることが出てきたら、2週間放置することを次の課題にしてみませんか? それでも気になるようなら、3回まで広げることにしましょう」
「2週間……」
あたしの憂鬱を察したように米田先生が言い継ぐ。
「苦しむだけでは、モチベーションが上がりませんね。考えてみてください。2週間も強迫観念の相手をしなければ、紫藤さんはその時間をもっと楽しいことに使えますよ。その時間に、タブレットで小説や漫画を読めます」
「あら、それじゃ、タブレットの使用が?」
海宝さんが黒目がちの瞳をぱっと輝かせる。
「ええ、◎が10個ついていますね。これなら、金先生もOKサインを出すでしょう」
米田先生が口角をぐっと持ち上げ、親指を立てて突き出す。この先生に褒められると気分が上向く。以前は挑発的で癇に障った彼の言動が、すべて意味があったように思えてくる。
★
タブレットの使用が許可されて1週間、あたしはnoteの無料で読める小説や漫画をサーフィンした。お金がかからない上に、あたしでもさくさく読めるネット作品は以前から好きだった。架空の世界に没頭することは、強迫観念の相手をしないためにも都合が良かった。
心惹かれたシリーズを読破し、無性に誰かに話したい気分のとき、海宝さんがバイタルチェックに来た。
「海宝さんは、ネット小説とか読みますか?」
「ええ、たまにね。昔から小説を読むのは好きよ」
海宝さんは首からさげている老眼鏡を外し、タブレットに入力しながら答える。
「あたし、noteで”さくらゆき”という人が書いた”紫陽花の季節”っていうシリーズを見つけたんです。あたしが生まれる前に書かれた作品だけど、何かいろいろ親近感湧いて、夢中で読んじゃいました。内気で純粋な夏越という青年が、八幡宮で紫陽花の精霊と出会って恋に落ちるんです。人間と精霊の禁断の恋!」
「あら、素敵なお話じゃない。紫陽花の季節も近いし」
海宝さんは、めずらしくテンションの高いあたしに目を細めるが、あたしの言動から何かを読み取ろうとする看護師としての姿勢は崩さない。
「でしょ、でしょ? 彼女は紫陽花の精霊だから、『紫陽』って呼ばれているんです。あたしの苗字が紫藤だから、何か勝手に親近感湧いちゃって。紫陽は紫陽花が咲く季節以外は夏越に逢えないんです。紫陽花の精霊なので、紫陽花の開花時期に目覚めて、夏越の祓を終えると眠りにつくから。おまけに、彼女が存在できるのは八幡宮の敷地内だけ。だから、夏越と一緒にできることも、過ごせる時間も限られてて。紫陽はそれが淋しくて、精霊として死んで、人間として生まれ変わると決断するの。すごいでしょ?」
「紫陽にとっては命がけの決断ね。どうしたら生まれ変われるの?」
「何か、2020年6月21日は、372年ぶりに夏至と日食が同じ日に起こったそうで……。太陽の力が最大限になる夏至の日に、新月の力が食い交わって、失われた者が再生する力が働くって……。紫陽は、その日に人間として生まれ変わるために精霊として死んだの。夏越にプレゼントされたお守りで作ったかんざしを彼に残して」
あたしはタブレットを見ながら、たどたどしく説明する。
「強い思いと、自然の力が交わって生まれる奇跡……。ファンタジーと現実の壁を違和感なく越えていく魅力的な作品ね」
海宝さんが、真摯に答えてくれたのが嬉しくて、あたしはさらに説明しようと身を乗り出した。
「ごめんなさいね。もっと話を聞きたいけど、今日は忙しいのよ。また、聞かせてちょうだい」
あたしは、ワゴンを押して出ていこうとする海宝さんを呼び止める。
「ねえ、海宝さんも読んでみてください。海宝さんの感想聞きたいです」
「いいわ。作者名と作品名を教えてちょうだい。明日からの週末、栃木の両親に会いに行くから、電車のなかで読むわ」
海宝さんは、あたしが差し出したタブレットを見て、手早くメモをした。
「2020年ね……。新型コロナウイルスの流行で、たくさんの人の運命が変わった年だわ……」
海宝さんは、過去に思いを馳せるように視線を彷徨わせたが、すぐに看護師の顔に戻り、ワゴンを押して出ていった。