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風花が舞う頃 23

 石段が続く温泉街に夜のとばりが降り始める。橙色にライトアップされた街並みに、湯煙がゆらゆらと揺れ、幻想的な雰囲気が醸し出される。

 如月ゼミ 2泊3日の合宿は、1日目の終わりを迎えた。アメリカの分断を論じる2冊の輪読が終わり、私が締めのコメントをする。大作だったので、議論の道筋を示す要約と、学生の関心に沿った論点の提示が妥当だろう。


―現在のアメリカの分断は、いかなる経緯で起こり、どうしたら乗り越えられるのかを考えたいというリクエストで選んだ2冊でした。いかがでしたか?

 まず、2冊の主張を確認しておきます。 
 午前中に読んだパットナム、ギャレット『上昇』。
 19世紀末「金ぴか時代」のアメリカでは、大企業による独占が進み、天然資源は乱獲され、先住民の権利は蹂躙されていました。皆が個人の利益追求に邁進し、見返りを求めずにコミュニティに奉仕する社会関係資本ソーシャルキャピタルも後退しました。著者は、この125年前と現在のアメリカの類似性を指摘します。
 ところが、そのアメリカ社会は、約半世紀の間に、段階的に所得格差を縮め、人種差別を改善しました。コミュニティは再生し、社会関係資本も上昇しました。
 しかし、これらが1960年代から再び下降を始め、現在の政治、経済、社会、文化、社会、人種、ジェンダーに渡る分断に至りました。
 本書は、アメリカ社会が再び分断を乗り越えて上昇するため、個人主義と共通善のバランスを求め、かつての改革を担った市民の精神と行動から学ぶことを示唆しています。

―他方で、ハンチントン『分断されるアメリカ』は、分断を乗り越えるために、アングロ‐プロテスタント文化や信仰の尊重を示唆します。

 ハンチントンが挙げたアメリカのナショナル・アイデンティティを構成する要素は『人種、民族、文化、政治(イデオロギー)』の4つでした。アメリカが多民族社会に発展する歴史を経て、人種と民族はそこから外れました。

 著者は、20世紀末になり、3世紀に渡りアメリカのアイデンティティの核だったアングロープロテスタントの文化も挑戦を受けていると指摘します。

 アングロープロテスタント文化とは、17‐18世紀にアメリカに入植した人々の文化。つまり、英語、キリスト教、信心深さ、法の支配に関するイングランドの概念、支配者の責任、個人の権利、非国教派プロテスタントの個人主義の価値観、勤労を善とする労働倫理、人間には地上の楽園である『山の上の町(マタイ伝5章14節)』を作り出す能力と義務があること。

 過去にアメリカが数多の移民を引き付けたのは、主にこの文化と、それが生み出す経済的機会でした。

 それが後退した要因として、中南米やアジアから新たな移民が大量に入国したこと、知識人や政治家の間で多文化主義と多様性を重視する政策が人気を得たこと、アメリカの第二言語としてスペイン語が普及してアメリカ社会の一部がヒスパニック化したこと、人種・民族・ジェンダーに基づく集団アイデンティティが主張されたこと、国外離散者ディアスポラと彼らの祖国の政府の影響力が高まったこと、エリート層がますます世界主義的コスモポリタンでトランスナショナルなアイデンティティを持つようになったことが挙げられています。

 結果、いまアメリカを結び付けているのは政治への忠誠のみ。つまり、自由、平等、民主主義、個人主義、人権、法の支配、私有財産の尊重という信条(イデオロギーへ)の忠誠。

 著者は、国家を束ねるには信条だけでは弱く、アングロ‐プロテスタント文化や信仰などで結束される必要性を主張します。


 2冊に共通するのはアメリカの分断を憂慮し、それを乗り越える手がかりを説得力ある論理で示唆していることです。

 ―因みに、私がオープンキャンパスで、模擬講義「アメリカの分断と2024年大統領選挙の展望」をしたとき、ハンチントンが指摘した世界主義的なエリート層と愛国的な大衆の分断に言及しました。
 無国籍化し、トランスナショナル、サブナショナルなアイデンティティを優先するエリートは、アメリカが国際的な安全保障、平和、グローバリゼーションを推進し、他国の経済発展を促進することに関心があります。人の自由な移動は、グローバル化と経済成長に欠かせないと考え、移民によって労働者の賃金と労働組合の力が低下することを歓迎します。
 他方で、圧倒的多数である愛国的大衆は、アメリカのナショナルアイデンティティの揺らぎを憂慮しています。そして、国内産業を守る保護貿易を好み、自分たちの生活を左右する国内経済に強い関心を持っています。国際社会でアメリカが積極的な役割を担うことに消極的です。
 
 ハンチントンが論じたように、エリートが生み出す法律や公共政策は、大衆が望むものと乖離し、『選挙民を代表しない民主主義』が続いています。結果、大衆の望む政策を実現させるためにイニシアティブ(住民発議)が増えています。例えば、カリフォルニア州には、州議会を経ずに法を制定できるイニシアティブがあるため、それを利用して減税やアファーマティブ・アクション廃止など、大衆が望む提案が承認されています。

 模擬講義でも触れましたが、私はトランプのような人物を大統領に押し上げた要因の一つに、この溝があると見ています。彼が掲げる『アメリカファースト』―国外に移転した製造業を国内に戻す、雇用創出、関税引き上げ、同盟国による防衛費の負担増額、多国間主義やグローバル化に否定的な外交政策、移民の制限は、まさに愛国的な大衆が望む政策です。

 こうした点も踏まえ、アメリカが分断を乗り越えられるか、どう乗り越えるかを議論しましょう。進行は木村くんにお願いします。

 無事に就職が決まった木村くんは、一皮むけた精悍な眼差しをゼミ生に注ぐ。
「いま、先生がまとめてくれたことを踏まえて議論しましょう。コメント、質問、論点など、どんどん出して下さい」

 4年ゼミ長の三枝くんが、一番に発言する。
「2冊を読んで、アメリカがここまで分断した経緯が見えてきました。分断を乗り越えるかですが、これだけグローバル化が進むと、この流れは抗しがたく見えます。押し寄せる移民の波を止めるのも、グローバルにビジネスを展開する多国籍企業エリートに愛国心を求めるのも時代遅れと思います。
 そして、先生が言及されたように、愛国的大衆の利益を代表するトランプ大統領が2016年に就任しました。ですが、それが接着剤になったとは思えません。2020年大統領選挙で彼が敗れ、選挙結果を受け入れられない熱狂的支持者が、2021年に連邦議会議事堂襲撃事件を起こしたことがそれを象徴するように思えます。歩み寄りが見られたとは思えません」

 木村くんが、やわらかい口調で受ける。
「三枝くん、熟考した意見をありがとう。もう少し、他の人の意見を聞いてみましょう」

 4年副ゼミ長の向坂さきさかくんが、良く通る低音で発言する。
「パットナムの本にあるように、政党は対立を煽り、有権者も党派色の強い投票をするようになったやろ。それ考えると、上昇を目指して団結しろという警鐘も響きにくいやろな……。因みに、木村さんは、どう思いますか?」

「結論から言うと、僕の意見も、現状を肯定する方向です。
 アメリカは、移民の労働力や頭脳を生かして超大国になったので、移民を拒否するのはアメリカ的ではない。グローバルエリートが誕生するのも時代の必然で、その活動を阻むのも現実にそぐわない。アメリカは、アングロ‐アメリカン文化が影響力を失っても、多様な文化が尊重され、開かれた経済活動ができる場として魅力的で、世界中から人・金・物が集まり続けると考えます」

 4年の針谷はりがいさんが挙手し、ハンチントンの著書を参照しながら発言する。
「木村さんの立場は、ハンチントンが否定する世界主義、『世界がアメリカをつくり直す』に近いということですか?
 要するに、アメリカは開かれた国境のある開かれた社会になり、世界中から様々な言語、宗教、慣習が入ってくればくるほどアメリカ的になる。サブナショナルな民族、人種、文化のアイデンティティ、二重国籍、ディアスポラが奨励され、ナショナル・アイデンティティは後退。多国籍企業に勤める中流階級のアメリカ人は企業に帰属意識を持ち、職業上または能力不足で地元から離れられない人々との一体感は薄まる。そうしたアメリカ人の活動は、連邦・州政府からの支配が弱まり、むしろ国際機関、国際法や制度に拘束される」

「それに近いです。僕が日系ブラジル人で、日本で生まれ育ちながら、日本人になりきれず、ブラジルにも1度しか行ったことがないので、そうした社会に惹かれるのでしょう。アメリカの強みは、多様な人々を受け入れる開放性から生まれるので、それを推進するべきです。その開放性を生み出したのが、アングロ‐アメリカン文化だと理解していますが、それへの同化を強制するのは現状にそぐわない」

 針谷さんが再び口を開く。
「でも、分断が進み過ぎるのも危険です。エリートの頭脳や生み出す資本が国を出てしまうと、アメリカの国力は弱まると思います。そうしたら、アメリカはもっと保守的になりそうです。アメリカファーストの外交が推進され、日本も高関税を課され、防衛費負担が増えそうです」

 椅子の上で胡坐をかいた向坂くんが、腕組みをする。
「せやな。このままがあかんのはわかる。けど、パットナムのように再び協調しろと呼びかけたり、ハンチントンのようにアングロ‐アメリカン文化や信仰で結びつこうと訴えて、今の流れを止められるやろか? 
 第二次世界大戦のような総力戦がない限り、アメリカが結束するのは難しいんやないか? 2001年の9・11テロのときに、一時的に愛国心が高揚して結束したらしいけど、それが長く続いてるとは思えん」

 3年生の旭野さんが挙手して発言する。
「グローバル化の進展で、社会の分断が顕著になるのは多くの国に共通する現象ですね。日本も、格差社会が進んでいます。そう思うと、日本の将来を考えることにもつながりそうですね」

 彼女の指摘に、ゼミ生は首を傾げたり、頷いたりしている。それを受け、木村くんが二冊を掲げて発言する。
「確かに日本にも共通する課題ですね。2人の権威が、こんな厚い本を書くだけあり、簡単に正解が出る問題ではないですね」

 それを受け、三枝くんが鼓舞するように訴える。
「そうですね。僕達は、大学祭で大統領選挙候補者の模擬ディベートをする。2冊から学んだことを生かせば、質が高い議論ができると思いませんか?」

「せやな。明日は、役割分担を決めるんやな」

 私は木村くんと視線を交わし、議論を閉める。
「各自が持ち帰り、大学祭につなげる課題ですね。アメリカの有権者の琴線に触れるディベートになることを期待します。
 一日お疲れ様でした。明日は4年生の卒論発表と大学祭の打ち合わせをします。今夜は飲みすぎ注意ですね!」

                ★
 温泉で汗を流し、ロビーの自販機で缶ビールを購入していると、背後から声をかけられる。

 浴衣姿の木村くんが、タオルを首にかけて立っている。皮脂が洗い流され、眉の太い濃厚な顔立ちが普段より爽やかに見える。
「お疲れ様。今日は大活躍でしたね。改めて就職祝いはしますが、一本ご馳走しますよ。どれがいい?」

「すみません」
 木村くんは小さく頭を下げ、私と同じものを選ぶ。

 私たちは自販機前のテーブルに座り、缶ビールを傾ける。ガラス張りの扉の向こうの中庭に、満月の光が注いでいる。

 缶をテーブルに置いた木村くんは、姿勢を正し、固い声で切り出す。
「私事で恐縮ですが、先週父が亡くなりました」

 身体が凍り付くような衝撃が走る。
「そうでしたか……。心よりお悔み申し上げます。大変なときに、合宿に来ていただきありがとうございます」

「いえ、すみません、お気を遣わせてしまって。先生には、いろいろ配慮していただいたので、お伝えしなくてはと思って……」

 葬儀や諸手続きで気丈に振舞う彼が脳裏に浮かぶ。彼が日本語の苦手な母親を支え、一家の長になると思うと心配になる。
「大変なことがあれば、一人で抱えないで、周囲を頼っていいのですよ」

 彼の瞳が力を失って揺れたが、すぐに強い眼差しを取り戻す。
「ありがとうございます。父は僕と妹が母を支え、日本でしっかり生きていくのを期待していたので、頑張ります」

「お父さんは、どんな方でしたか?」

 彼は唇の端に苦笑いのような笑みを浮かべる。 
「親父は権力におもねるところがあって、日本人の上司をはじめ、日本人に気に入られようとする人でした……」

「日本社会に同化しようと努めていたということですか?」

 木村くんは月を仰ぎ見るように視線を上げてから、私に視線を戻す。
「はい。でも、日本語はあまり上達しないし、上司からもどこか蔑まれていたようで、片思いでした……。僕の目には痛い奴に映ったし、周囲の日系ブラジル人にも親父を軽蔑している人がいました」

「私もアメリカで同じような経験があるので、お父さんの気持ちがわかります。だからこそ、お父さんは木村くんに日本で頑張ってほしくて、大学院まで進学させてくれたのかもしれませんね」

 木村くんは頷いて続ける。
「僕は、中学くらいの頃から、ブラジル人同士で固まる狭い社会も、完全に日本人の仲間になれないのも嫌でした。日本が息苦しくて、海外に出たいと思いました。国際機関とかNGOとか、国籍とか関係なく活躍できるところで働きたいと思いました」

「お父さんは、どう言っていましたか?」

「いいんじゃないかと応援してくれました。でも、経験を積んだら、地元に戻って同胞のために働けと厳しく言ったんです」

「日系ブラジル人コミュニティのために?」

「ええ。父は生前、僕と妹はもちろん、周囲の日系人にも日本への帰化を勧めていました。長男の僕には、国籍を取って国会議員になり、困っている日系ブラジル人の生活が楽になるように働きかけろ、ブラジル政府や日系ブラジル人議員との懸け橋になれと言っていました」

「そうでしたか。ブラジルの日系人は、政界にも進出して活躍していますからね」

「はい。親父とこの話をしたのは高校時代なので、正直あまり響かなかったんです。でも、如月先生に紹介された『分断されるアメリカ』を読んだ時、思い当たりました。祖国政府が、国外移住を奨励し、国外離散者ディアスポラを拡大、動員、組織し、祖国とのつながりを制度化し、受け入れ国で祖国の利益を促進させることが自国の利益になると考えていると書いてありましたよね? メキシコの大統領が、アメリカに不法滞在しているメキシコ人の合法化のために働きかけたり、メキシコ系アメリカ人の利益を推進したり、メキシコ国内における彼らの地位を高めているのを読んで納得しました。
 日本の日系ブラジル人も、働いて日本の製造業を支えているんです。だから、僕達が日本国籍を取って投票して、選挙に出て、生活や教育で困っている現状を変えなくてはなりません。
 日本のブラジル人社会が影響力を強めることで、ブラジル政府や議員にも注目してもらい、僕達の状況を改善するために日本政府に働きかけてもらわなくてはなりません。ブラジルは国籍放棄できないので、僕達は日本国籍を取得してもブラジル人です。そして、日本のブラジル人は、日本で働いてブラジルに送金し、ブラジル経済の一旦を担っているのですから。
 僕たちが政治的に動かなくては、日本の日系ブラジル人社会は弱い立場のままです」

 力のこもった口調で語った木村くんは、頬を染めて首を竦める。
「O大で如月先生の授業を受けて良かったです。学ばなければ、親父の言ったことの意味がわからなかったと思います」

「木村くんが、南米系アメリカ人の政治活動と祖国政府の役割に関心を持ったのが前よりわかりました。以前は、叔父さんがアメリカで不法移民として苦労したからと言ってましたね?」

「このことは、先生に話すのも恥ずかしかったので、叔父を理由にしてました……。叔父、父の姉の夫がアメリカで不法移民の経験があるのは幸いでした。彼の一家は既にアメリカ国籍を取得し、政治活動にも積極的です。修論には彼のインタビューも入れます」

「読ませていただくのが楽しみです。木村くんは、いずれ日本国籍を取得して選挙に出るのですね」

「はい。親父が倒れてから、ゆっくりその話をする時間が持てました」

 彼のお父さんは、逞しく成長した息子を空の上から誇らし気に見ているに違いない。O大には、こうした瑞々しい志を持った学生がいる。龍さんの改革が進めば、そんな学生が増える。彼らの指導ができると思うと、身体に力が漲る。

参考文献
サミュエル・ハンチントン(鈴木主税訳)『分断されるアメリカ』(集英社、2004年)
ロバート・パットナム、シェイリン・ロムニー・ギャレット(柴内康文訳)『上昇―アメリカは再び団結できるのか』(創元社、2023年)