ピアノを拭く人 第1章 (7)
「水沢さん、お待たせしました。そうそう、これ伊香保の水沢うどんね」
うどんを運んできた羽生が、茶目っ気たっぷりの笑みを見せる。
「ありがとうございます……、いただきます」彩子は苦笑いしながら、箸を手に取る。
マスクを外すと、出汁の香りがたゆたい、食欲を刺激する。汁を一口すすり、思わず笑顔になる。羽生は鰹節と昆布、切り烏賊、干し海老で出汁を取ると言っていた。合わせ出汁が、こしのある麺によく絡む。
一心不乱にうどんをすする彩子に、羽生は満足そうに頬を緩め、厨房に入っていった。
「これ、サービスね」
しばらくして、羽生が運んできたトレイには、水菜に刻んだ胡桃、アーモンド、レーズンを散らした大盛のサラダと、四つ切りの小さなトーストが乗っていた。
「いいんですか?」
「今夜はもうオーダー出なさそうだし、余るよりは食べてもらったほうがいいから。炭水化物だけだと体に悪いよ」
「ありがとうございます。このトーストに乗ってるの納豆ですか……?」
「納豆に醤油、葱、紫蘇、茗荷、胡麻を混ぜて、蓬パンに塗って、かりかりに焼くの。日本酒のつまみにもいいよ」
「すごく美味しそうですね。遠慮なくいただきます」
具だくさんのトーストはお酒が欲しくなる風味で、車で来ているのが悔しくなる。
トオルは今夜もマスクをしたまま歌っている。
トオルの弾き歌う「長崎の鐘」は、長調に転調するサビで大げさに盛り上げない。それでも、悲しみの果てにたどりついた希望を感じさせる力を秘めている。
長崎出身だという老女がピアノに歩み寄り、歌い終えたトオルに、ありがとうと優しく伝える。トオルは恐縮し、下手ですみません、聴いていただきましてありがとうございますと頻りに頭を下げ、老女を困惑させている。
彩子は週に何度か、仕事帰りにフェルセンのカウンター席で夕食をとるようになっていた。和洋折衷の羽生のメニューは、控えめな味付けで、食欲の落ちた彩子の胃にも優しい。
あの夜以来、トオルの顔を見るのが気恥しかったが、彼は敢えて触れないでいてくれる。彩子もタオルを返してお礼を言った以外は、あの夜のことは口に出していない。あの晩のトオルの伴奏は、センサーのようにブレスをとらえてくれた上に、どんなふうに歌いたいかという意図を瞬時に読み取ってくれた。気持ちよく歌えて、感情を解放できたことで、彼への名状しがたい気持ちが芽生えていた。それに敬意や好意など、あえて名前をつける必要もない気がした。
演奏の合間に、トオルに話しかけたこともある。
彼は無理につくった笑みをはりつけ、丁寧すぎるほど丁寧に対応してくれる。だが、どこか怯えた様子で、会話を楽しんでいるようには見えない。彩子はそこにもどかしさを感じている。
彩子が歌やピアノをほめると、ほめ言葉1つ1つに「ありがとうございます」が機械のように返ってくる。満足のいく演奏ができなかったとき、話すタイミングが重なってしまったときなど、執拗に謝罪の言葉を口にする。
帰り際には呼び止められ、会話の流れでタイミングを失った感謝や謝罪の言葉が付け加えられる。それが済むと、「お忙しいときに、お時間をいただいてしまって申し訳ございません。気をつけて、お帰り下さい。また、いらしてください」とセットでついてくる。
彩子が店の外に出てからも、彼が外に出てきて「ありがとうございました。また来てください」などと言い添える。次に店を訪れた際に、「以前、言い忘れてしまったのですが……」と感謝や謝罪の言葉を追加されることもめずらしくない。
会話ではなく、儀式に参加させられているようだった。
彩子は、彼は丁寧な人なのだと思い、恐縮しながら対応してきた。だが、感謝や謝罪を繰り返す彼は苦しそうで、望んでそうしているようには見えない。
「納豆トースト、美味しかった?」
カウンターの前に設置されたアクリル板の向こうから、羽生が尋ねる。 彩子はマスクを付けて答える。
「はい。蓬パンに少し甘味があるので、塩気のある具材の味が引き立って、素敵なハーモニーでした」
「嬉しい言葉だね。その蓬パンも、私が焼いてるんだよ」
「本当ですか? 私、蓬パン大好きです。納豆トースト、また注文しますね。今度は歩いてきて、お酒のおつまみとしていただきます」
「ぜひ。うちの看板メニューだからね」
トオルが、額に汗をにじませ、老女に頻りに頭を下げ始める。どうやら、老女のリクエストした曲を知らなかったらしい。老女は、気にしないでと宥めているが、トオルは憑かれたように謝罪を続ける。
見かねた羽生が2人に近づく。
「藤岡さん、すみませんね。他にリクエストありませんか?」
老女は羽生の介入に安堵した表情を見せる。
「ああ、そうね。前に歌ってくれた浜辺の歌をまたお願いしようかしら。私の一番好きな歌なの」
「かしこまりました。透、大丈夫だな?」
「はい」
彩子には、老女の帰り際、トオルが過剰な謝罪を繰り返す姿が目に見えるようだった。
優しいピアノに乗り、憂いを帯びたトオルの歌が始まり、羽生はやれやれという表情で、カウンターの裏に戻ってくる。
「古関裕而さんの曲、朝ドラの影響で、流行っているんですね。長崎の鐘、いい曲ですね」
彩子は、羽生がまとう重い空気を中和しようと尋ねた。
「うん。リクエストする人が増えたから、古関さんの曲の楽譜を注文しないといけないな」
羽生はどこかうわのそらで答える。
老女は目を閉じて、トオルのテノールに耳を傾けている。
「どうにかしないといけないんだけどね……」
羽生は誰に言うともなしに、ぽつりと言った。
「以前、透と話したんだ。お客さんとの会話で気になることができても、しつこく伝えるのを止めて、店を閉めたあと、私に言うことにしよう。それで少し落ち着いたけど、やっぱり気になって仕方ないって、元に戻ってしまってね。言い始めると止まらなくなるとか、何度言っても十分伝えていない気がすると言うんだ」
「トオルさんが気にすることは、些細なことに見えますが……」
「それでも、彼にとっては大問題なんだ。とにかく、他人に無礼なことをしなかったかが気になるらしい。店を閉めた後で、お客さんにお礼やお詫びを1つ言い忘れたことが気になりだすと、居ても立ってもいられないほど動揺して、失礼じゃなかったかと何度も私に聞く。私は、相手は何とも思ってない、しつこく言って相手の時間をとるほうが余程失礼だと言うんだけどね。何時間も同じやりとりを繰り返して、ようやく落ち着いても、夜中に電話を掛けてきて、また同じ問答を繰り返す……。私も彼もへとへとになる。彼は、そのお客さんがまた来てくれて、言い忘れたお礼やお詫びを言えるまで、気にし続ける。彼自身も、いまの自分が異常だとわかっているけれど、自分ではどうにもならないらしい……」
彩子は、タオルと傘を返しに来たとき、彼が見せた安堵の表情の意味が理解できた。彼が自分との再会を喜んでくれたという浅はかな解釈が塗りかえられたことに、少しだけがっかりした。彼が1ヶ月近く、些細なことを気にしていたのかと思うと、申し訳なさと一抹の寂しさが胸を占める。
「今のトオルは、人と会うと気になることが出てきて、他人を困惑させる行動をしなくてはならなくなる。だから、彼はできる限り、人との接触を避けているそうだ。最近では、買い物で店員と接することも怖くなって、セルフレジのあるスーパーで買うか、私が代わりに買ってくるかだ。どうしても人と話さなくてはならないときは、気になることが出てこないように、過剰なほど、ありがとうとすみませんを繰り返す。当然、ここで週5日弾くのも彼にとっては命がけだ。けれど、休ませたら家から出なくなってしまうと思うと、心を鬼にして引っ張り出すしかない。とは言っても、今のままだと、お客さんが気味悪がって離れてしまう……」
「お医者さんに診てもらったほうがいいのではないでしょうか……?」
「去年、近くのメンタルクリニックで診てもらったんだ。行くたびに安定剤だ、抗不安薬だと薬の種類を増やされてね。そのうち、薬のせいで、とろんとした目をして、動きも鈍くなって、ピアノも思うように弾けなくなった。薬で廃人みたいにするだけで、根本的な解決になっていないように思えた。見かねた私は診察に同席して、良くならないのでどうにかならないかと訴えたが、薬を増やすしかできないと言われた。しばらくして、彼は医師の前で良くなったふりをして、丁寧すぎるほど丁寧にお礼を言って、通うのをやめたんだ……。それ以来、受診には乗り気じゃない」
カウンターを挟み、濃い沈黙が流れた。
「彼も私も、そろそろ限界だから、どうにかしてくれる医者を探さなくてはならないね」
羽生は重い話をしてしまってごめんねと言い残し、老女の珈琲カップを下げにいった。